小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

俊一郎の人生

INDEX|19ページ/37ページ|

次のページ前のページ
 

 不思議な力が作用しているのではないかと思ったところに、若菜がストーカーの話をしたことで、
――もはや偶然であるわけがない――
 と思った。
 これが偶然でないとすれば、いろいろと考えることがある。
――若菜と出会ったのは必然だとしても、なぜ今のタイミングなのか、そして、若菜が自分に対して、そして自分が若菜に対して、どのような影響を与えようとしているのか、そして、それが自分の力とどこまで影響しているのだというのだろうか――
 俊一郎は、完全に自分の世界に入っていた。
――これも自己催眠になるのだろうか?
 小説の中では自己催眠に掛けた女は、死を覚悟していて、死の恐怖から少しでも逃れようと自分に催眠を掛けたとのことであるが、なぜ自分を殺そうとしている相手に、再度催眠を掛けなかったというのだろうか?
 考えられることは一つあった。それは、
――催眠を掛けられるのは、一人に対して一度だけという制約がある――
 ということだ。
 小説の中では、そこまで明記していなかったが、それが作者の読者に対しての挑戦だったのかも知れない。
 そう思えば、少しは後味の悪さが消えてきたような気がする。それこそ作者による読者に対しての、
――主人公からの最後の催眠――
 だったのかも知れない。
 そういえば、小説のタイトルが、
「最後のメッセージ」
 というものだった。
「最後の催眠」
 というタイトルであれば、内容からしっくりくるタイトルだと思ったが、内容からタイトルを考えた時、しっくりこないものを感じていたが、タイトルの本当の意味が、読者に対してのメッセージだと思うと十分に納得できる。
 そこまで感じるには、何度か小説を読み返す必要があるだろう。
 しかし、最後まで読み終わった時点の後味の悪さで、どれだけの人が読み直してみようと思うだろう? それこそ作者の読者に対しての挑戦のようなものだったに違いない。本の後ろに書かれた概略には、確か、
「読者への挑戦」
 という言葉が織り込まれていた。
 これもどれだけの人が最後のあらすじを読んでから本を開くか分からないが、それよりも、読み終わった後、ほとんどの人はあらすじの内容まで気にしていないのではないかと思う。それだけラストは後味が悪かった。
 作者は女性作家で、この人の作品は後にも先にもこれだけだった。
 一作品を書いたのが数年前、それから文壇の世界より姿を消したようだった。元々この本もベストセラーになったというわけではないが、一部の読者の間では、少し評判になったようだ。ネットでもいろいろ書かれていて、賛否両論、真っ二つに意見は分かれていたようだ。
――こんな作家、他にはいないよな――
 と思っていた。
 実際に、今まで読んだ本の中でこんな作品は他にはなかった。俊一郎の中にセンセーショナルな意識を植え付けていたのだ。
 デッサンしながら、この作品のことを思い起したことも何度かあった。
 俊一郎がデッサンしている時というのは、決して何も考えていないわけではない。どちらかというと、いろいろ考えて描いている方だ。
 その内容は、千差万別、その時の心境によることが多く、どちらかというと、心の中にポッカリと穴が空いた時、この小説を思い浮かべていた。
 心の中にポッカリと穴が空くようになったのも、実はこの小説を読んだ後に急に多くなったことで、この小説が俊一郎に与えた影響は、決して少ないものではなかった。
 俊一郎の心の中では、
――心の中にポッカリと空いた隙間に、課長への恨みなどが入り込んだところで、不思議な力が生まれてきたのではないか――
 と思っていた。
 それが小説の内容とどこで結びついてくるのか分からないが、キーワードは、
――自己催眠――
 ではないかと思っている。
「人は、自分の能力の数パーセントしか使いこなせていない」
 という話を聞いたことがある。残りの能力がいわゆる超能力であって、誰もが持っているのだとすれば、それを表に出すだけではないか。それが不思議な力として認識され、
――力があるはずなのに、それを発揮できないものだと思い込まされているんだ――
 それは超能力というものとして、あくまでも特別な人間しか持っていないものだと思い込まされている。
 マスコミや教育によって洗脳されていると言ってもいい。
 そんな状態こそ、
――自己暗示――
 と言えるだろう。自己暗示がやがて自己催眠に繋がっているとすれば、催眠術という能力を誰もが使いこなせているではないか。催眠術は特別な人間にしかできないという考えは、そこで違ってくる。
 そこまで感じてくると、俊一郎は、
――自分にも超能力と言われるものが使えるような気がしてきた――
 と感じた。
 最初は根拠のないものだったが、それが少しずつ根拠として感じられるようになったのは、デジャブの感覚が頻繁に起こるようになったからだった。
 デッサンをしていて、
――前にも同じようなものを見て、同じようなことを考えながら描いていたような気がする――
 と、描きながら感じ始めた。
 一度感じると、次回も、その次も同じように感じるようになってくる。自己暗示の始まりだった。
 次第にその思いが強くなり、不思議な力だと思い始めて、その後に課長が交通事故で死んだと聞いた時、胸騒ぎが最高潮になっていたことに気が付いた。
 ソワソワした気持ちは、課長の死の知らせによってもたらされたものではなく、それ以前からあった。
 その時に、小説を思い出したかどうか、、咄嗟のことで覚えていないが、課長の死を聞いた時、今までの自分なら、なるべく意識しないようにしていたかも知れない。
 肉親の死だというのであればいざ知らず、死というものをあまり深く考えないようにしようという思いが今までの俊一郎にはあった。
 人の死について、あれこれ考えることは愚の骨頂だ。
「可哀そうに」
 と、赤の他人の死に対してそう言う人がいるが、いかにもウソっぽい感想である。俊一郎は、
――人は、誰でもいつかは死ぬんだ――
 という当たり前のことから、人の生き死にに関して、あまり気にしないようにしている。気にしてもキリがないからだ。
 しかも気にしたところで、虚しさが残る。気にしてしまうと、いずれ自分の死についても考えてしまうかも知れないからだ。
――そんなもの、考えたくない――
 死というのは怖いものである。
「人はいつかは死ぬんだ」
 と自分に言い聞かせているのは、怖いことを忘れようとする本能のようなものかも知れない。
 死が怖いものだということを再認識したのは、例の小説を読んだ時だった。その時に感じたのは、
――少なくとも、もう一人、死について怖いと思っている人がいるんだ――
 ということだった。
 そう、作者自身である。
 彼女は小説を通して、つまりは主人公の女性が殺されることを自己催眠で少しでも和らげようとしたのは、死の恐怖に対してであろう。実は作者は小説の中で一言も、
「死の恐怖」
 という言葉を書いていない。そのことを意識することなく読者は読み進んでいることだろう。
 俊一郎自身も、課長の死というものに直面しなければ考えることではなかった。
 作者としては、
作品名:俊一郎の人生 作家名:森本晃次