俊一郎の人生
もちろん、声に出すことはしない。声に出してしまえば、自分の中で認めていることを、言い訳,しているだけにしか聞こえないからであろう。若菜もその時の自分と同じ考えを持っているんだと思うと、俊一郎は、若菜という女性に、さらに親近感が湧くのだった。ただ、親近感が湧いても、それは中学時代の自分で、今の自分は中学時代とは違うということを意識しているので、湧いてくる親近感に対し、素直に委ねる気にはならなかったのだ。
「その人は、一体どんな人なんでしょうね?」
若菜は、少し困ったように俯いていた。その顔は紅潮していて、恥じらいが感じられた。どうやら、羞恥に近いものが二人の間にあったのではないかということは想像がついた。
おもむろに若菜が口を開いた。
「実は、その人からストーカー行為を受けていたんです」
聞いた瞬間、ショックで声も出ないかと思ったが、次の瞬間には、
――やはりそういうことか――
と、納得した自分がいたのだった……。
◇
若菜が俊一郎に告白してくれたのは、どういう心境からなのだろう?
誰でもいいから人に聞いてもらいたかったということなのか、もしそうだとすれば、死を目の前にして、どうでもいいというような気持ちにあるだろうか、助かったことで、どうして死のうとしたのか、誰かに聞いてもらいたくなったという方が心境的にありえることではないだろうか。
――やはりそういうことか――
と、感じたその次に、急に背筋が寒くなった。ストーカー行為は自分にも経験があるだけに、自分が若菜を知っていて、彼女にストーカー行為を考えたとしたら、どんな心境になるのだろうかということが頭を巡ったからだ。
若菜という女性は、どこか神経質なところがあるように見える。さっきまでまるで死んでいたような雰囲気だった女性なので、まだ精神状態がまともではないことで、神経質に見えるだけなのかも知れない。
だが、よく見ると、華奢な体つきは、今まで自分が知っている女性の中でも小柄で一回りは小さい感覚だ。
――抱きしめたら、骨が折れそうだ――
と思うくらい華奢な身体は、抱いてみたいという感覚にはならない。
――少なくとも、俺ならストーカーにはならないな――
と思ったのだが、若菜はまさか自分が打ち明けた相手に、かつてストーカー行為があるなどということを知る由もないだろう。
いや、逆に知っていて、わざと話をしたのかも知れない。
それはまるで俊一郎をけん制するかのようなイメージだが、何をけん制しようというのか分からない。
俊一郎は、明らかに若菜に怯えを感じていた。
自分が以前ストーカー行為をしたことを知らなくとも、一緒にいれば、そのうちに気付くかも知れない。ストーカーというのは、するよりも、される方が、よほど神経が敏感になっているはずだからである。
しかも、相手が違うとはいえ、加害者と被害者の立場であれば、明らかに被害者の方が立場は強い。今さら罪に問われることはないにしても、深い仲になってしまうと、お互いの立場は揺るぎないものになってしまうに違いない。
俊一郎は、若菜と知り合った時、
――この女性とは、これからもずっと一緒にいるような気がする――
という予感めいたものがあった。それは、若菜にも同じ感覚が芽生えているのを感じ取ったからで、いくらこちらが相手を気になったとしても、相手がこちらを気にしていなかったり、無視するような感じであれば、
――この人とは合わない――
と分かるだろう。
ただ、合うかどうかということは、慎重に判断しないと難しい。ある程度好きだという感覚に違いはないと思ったとしても、
――ずっと一緒にいて、果たして違和感がないかどうか――
それが問題だと思うのだが、知り合ったばかりの相手にそこまで感じるのは、なかなか難しいだろう。
俊一郎は、どちらかというと、すぐに相手を好きになる方である。ずっと一緒にいて違和感を感じるかどうかなど、知り合った時に考えることはなかった。それは、相手と一緒にいて楽しいという初対面の感覚は、付き合い始めてからの一緒にいる気持ちとは違うからだ。
――最初で、何も分からないからこそ、相手と一緒にいる時の楽しさが新鮮なのだ――
そう、新鮮さが大切なのだ。
知り合ってすぐは、人当たりもよく、会話の話題性にも事欠かない俊一郎は、自分に酔ってしまうところがあった。まわりが見えなくなって、自分だけが先行してしまう。
新鮮なイメージは純粋無垢なイメージだけではなく、活発な行動力を伴った感覚が新鮮さとして気持ちに残ることがあった。
相手の女性にとって、それは煩わしさでしかなかった。最初はゆっくり仲良くなりたいと思っている人には、そんな俊一郎の態度は、まるで初めての家に、土足で上がりこむようなものだという感覚になるに違いない。
ただ、俊一郎が考えたのは、自分のことよりも課長のイメージの方が強く残っている。なぜか今若菜と出会って、課長が交通事故で死んだことに対して大きな不安を覚えているのだった。
課長が交通事故で死んだことを最初は偶然だと思っていたが、ひょっとして、自分の趣味の邪魔をする課長を殺したいという、俊一郎の妄想が、まさか現実になったのではあるまいか。
俊一郎は、そのことを最近気にするようになっていたことを、若菜と出会って再認識した気がした。それは、最近読んだ本を思い出したからだ。
その本は、一人の男性が、女性と出会うところから始まっていた。
その男性はすぐに彼女に恋をする。そしてその女性に対していつの間にか言いなりになっていて、彼女のためなら何でもするようになっていたのだ。
彼は犯罪行為を犯し、警察に捕まってしまう。自分に容疑が向かないような小細工など一切することもなく、まるで衝動的な行動だったようだ。
男は彼女に一種の催眠状態にされ、操られていたようなのだが、彼女はそうやってまわりの男性を使って自分が生き延びてきたような女だったのだ。最後はその男性からオンナは殺されてしまうのだが、彼女は自分に催眠を掛け、死ぬことを怖くないと意識させていたという。
――これも自殺というのかな?
何とも後味の悪い小説だったが、少し強引にも感じられる話だった。
それを読んだ時、
――俺にも何か力がありそうな気がする――
と感じてしまった。
そして、それが課長が死んだことと関係があるような気がしてくると、
――いやいや、そんなことあるわけはない――
と、否定する方が、認めるよりも難しいことに気が付いた。
――そんなバカな――
これこそ、本の中の女の力、それを自分に使った時の自己暗示のような気がした。しかも、一つのことを思いこむと、俊一郎は頭から離れなくなる。これも不思議な力の呼び水になっているのかも知れないと思うと、さらに、否定する気持ちがどんどん薄れてくる。
そんな時に出会ったのが、若菜だった。
若菜との出会いも、本当であればただの偶然なのだろうが、ただの偶然として片づけられない自分を感じると、どうして偶然ではないかを考えるようになった。