俊一郎の人生
妙に頼もしい背中を見ながら後ろからついていくと、次第に胸が高鳴ってくるのを感じた。威風堂々として見えても、前を歩いている連中は、風俗が近づいてくると、緊張しているのが見えてきたようだ。
――きっと他の連中には気付かないんだろうな――
自分だから気付いたというのは、自分だけが特別というわけではない。今まで特別だった自分が、まわりに溶け込むことができたことでの悦びがあったからだ。
しかし、本当は人と同じでは嫌だと思っていた自分の性格が変わってしまうのを恐れている自分もいる。どちらが本当の自分なのだろう?
俊一郎は、まだその時、オンナを知らなかった。女性の身体を神秘的で、
――笑顔の裏にどんな淫靡な雰囲気が隠れているのだろう?
と思っていた。
煌びやかなネオンサインが見えてきた。
今までであれば、大通りを通るバスの車窓から見えているのを、見ないふりをしながら、横眼にはしっかりと捉えていた。それをまわりの人が悟っていたかどうか疑問だが、今さらそんなことはどうでもいいと思った。
――俺はこれから未知の体験をするんだ――
身体の反応とは別に、精神ではあくまでも「未知の体験」を主張する。なかなか淫靡な世界を自分と結びつけようとはしない自分がいる。
「ここにしよう」
一人が言うと、皆黙ってしたがった。
「あら、いらっしゃい。お久しぶりね」
最初に店を決めた友達は、あたかも今決めたような言い方だったが、実は常連だったのだ。ただ、本当に今決めたのかも知れないと思ったのは、ひょっとすると、
――この人は他にも知っている店があって、今日はここにしただけなのかも知れない――
とも少し思った。
しかし、それであれば、
――一体どれだけ金持ってるんだ?
という疑問にもぶつかる。
風俗がいくらほどかかるのか知らなかったが、そんなにしょっちゅう来れるほど安いわけはない。やはり、この店だけの常連なのだろう。
店の人から声を掛けられた友達は、少しバツの悪そうな表情をしたが、さすが常連の貫録なのか、
「今日は、いい娘いるかい? 友達を連れてきたんでね」
と、臆することなく話をしていた。一度や二度でここまで仲良くなれるわけもない。やはり常連なのだろう。
風俗に対して偏見がなかったと言えばウソになるが、もし風俗に対して偏見が薄くなったタイミングがあるとすれば、この時だったような気がする。
風俗のスタッフと気軽に話をしているのを見て、その様子がまるで街の八百屋にでも、その日の買い物に来た常連客のような雰囲気すら感じたからだ。
――俺もこんな会話ができればいいな――
と、正直思った。
今までは、何度か立ち寄ったことのある店でも、店員とこんなに打ち解けた会話ができるなど、自分には考えられなかった。
――この人なら――
と、感じたのも事実で、ただ、それが風俗のスタッフだったというだけで、これがきっかけで、自分も人と気楽に話ができるようになるのだろうと思ったのだ。
それにしても、ネオンサインの煌びやかさには少しビックリしていた。今はどこもネオンサインは大人しいものだった。パチンコ屋のネオンもさほど煌びやかには感じられなかった。
ただ、店内に入ると、怪しげな赤系統の暗い色の照明が灯っているだけだった。そのギャップがさらに淫靡な雰囲気を醸し出し、息苦しさを感じていた。
――ここは空気が濃い気がする――
呼吸困難に陥るのは、何も空気が薄い時だけではない。濃い空気の時にも息苦しさから咳が止まらなくなる気がしていた。それは風呂に入った時の湯気で感じたことであり、何度もむせた記憶があった。
空気が密封されているのを感じると、そこには風はなく、重苦しい空気が湿気を帯びて、気持ち悪さを感じさせる。
気持ち悪さを払拭しようとするからなのか、身体が暑さを感じ、汗が滲み出る。それは風俗という初めての経験への緊張感と重なって、最高潮の熱気を感じてしまうことになるのであった。
――これはたまらん――
と思いながら、なるべく身体を丸くしていた。顔を高い位置に持っていくと、それだけ空気の密度が高い気がしたからだ。ただの気のせいであるにも関わらず気になってしまうのは、それだけ緊張感が強いからなのかも知れない。
タバコを吸わない俊一郎にとって、喫煙者が多い今日のメンバーにもウンザリだった。皆が緊張の中でタバコを吸うものだから、密封した熱気を帯びた空気にタバコの煙が混ざったのでは、苦しさ以外の何も感じることはなかった。
「お待たせしました」
スタッフが中腰になり、頭を垂れている。
「じゃあ、お前からだ。相当緊張しているんだろうが、気楽にな」
と、最初に指名されたのが俊一郎だったのだ。
――助かった――
この場の苦しさを逃れられることに一番の安堵を感じた。
立ち上がり、暗い通路を抜けると、個室に案内された。
「いらっしゃいませ」
正座をした女性が頭を下げ、こちらに挨拶している。それを見たスタッフは、
――後は任させた――
とばかりに、修一郎が部屋に入ったと同時に後ろの扉を閉め切った。
さっきまでの嫌な空気は一変し、淫靡な雰囲気に包まれた時、俊一郎はこの雰囲気が初めてではないことを意外に感じていた。
「あれ?」
と思わず声を出すと、女性も顔を上げ、きょとんとしている。その顔はお茶らけているかのように見え、大人の雰囲気を十分に感じるにも関わらず、あどけなさすら思わせるその顔に対し、バツの悪さを感じた俊一郎は、頭を掻きながら、照れるしかなかったのだ。
「お客さんは、こういうところ初めてですか?」
「えっ?」
どこで分かったのだろう? 受付けで初めてだなどと話した覚えはない。やはりずっと男性を見ていると、すぐに分かるものなのか?
「どうして分かったのかって思っているでしょう?」
と、ニッコリ笑いながら彼女は言った。
「はい、どうしてですか?」
俊一郎も素直に聞いてみたいと思ったのだ。
「今、少し意外な感じが第一印象であったでしょう? それって、初めて来たはずなのに、前にも来たような気がしたからなんじゃないですか?」
「まさにその通りです。どうしてそんなことまで分かったんですか?」
「他の女の子はどうなのか分からないんだけど、私に初めてついてくれたお客さんは、まず最初に、初めてきたはずなのに、前にも来たような気がするんですって、不思議なんですけどね。だから、今のあなたの雰囲気で、この人は初めてなんだなって思いました。それでね」
「えっ」
ここで少し彼女は言葉を切り、照れ笑いをした。
それを見ると俊一郎も少しビックリしたのだが、彼女は続けた。
「お客さんは、童貞なんじゃないですか? 違ったらごめんなさいね」
ズバリ指摘されて、どう答えていいか分からなかった。今までなら、
「まさにその通りなんですよ」
と、ズバリ核心を突かれると、すぐに興奮して詰め寄るように声を荒げて話すのだが、その時はできなかった。
気持ちに余裕がなかったのか、それとも、金縛りにでも遭ったのか、声が出なかったのだ。
その代わり、照れ笑いをするしかなかったのだ。
少し、そこで会話が途切れた。