俊一郎の人生
彼女を見かけたのが、本屋の帰り、つまり、身体を寒さで震わせていた彼女を家に迎え入れ、何をしたというわけではないが、
――どこか不思議な雰囲気を持った女性――
だと感じたことだった。
あの時、彼女は不思議なことを言っていた。
「あなたと一緒にいると、安心できるわ。あなたには、そういう不思議な力があるのかも知れないわね」
「不思議な力?」
「ええ、私にとっては不思議な力……。あなたに不思議な力があるというのは、すぐに分かったつもりだったんだけど、それがあなたと一緒にいると、私の中で微妙に違ってくるのを感じるんですよ」
それが、死んでもいいような話をしながら、それでも助けてもらってよかったと言っていた彼女の気持ちを違う形で表現したもののように思えてならなかった。
ただ、彼女の中の話として、最初から俊一郎に何か不思議な力があるというのを感じたというが、それはいつだったのだろう? 凍えてしまっていた時に、そこまで考えることができたということだろうか? それとも最初から俊一郎のことを知っていて、その俊一郎に不思議な力があることを分かっていうことであろうか? もしそうであるとすれば、出会ったこともただの偶然だと思えない。
――出会うべくして出会った相手――
だということであれば、それが俊一郎の不思議な力が呼び寄せたということなのか、それとも、彼女の中にもある不思議な力と共鳴したということなのかのどちらかではないかと思う。
俊一郎に不思議な力があるということを看破できたのも、それは十分に不思議な力に値するものではないだろうか。
彼女にも不思議な力が備わっていて、俊一郎自身にも気付いていないが備わっているとするならば、この出会いは偶然で片づけられるものではない。
どちらかが引き寄せたとして、そこに彼女の意志が働いているとすれば、俊一郎も彼女を意識しないわけには行かない。
――ひょっとして、遠い昔に知り合いだったのかも知れない――
ただ、俊一郎は記憶を引っ張り出してみようと試みたが、記憶の中から引っ張り出せた範囲で、彼女に該当する人はいなかった。
――やはり、知らない人なのかな?
とも思ったが、知っている人で忘れているのだとすれば失礼なことにもなるだろう。
ただ、彼女の中に懐かしさを感じるのが少し気になるところだったが、それがある日を境に、懐かしさを感じられなくなった。
その後だった。俊一郎の中で、課長のイメージが一気に薄くなり、課長の存在が遠い昔のことであったように感じたのはである。
――これも不思議な力の成せる業?
ただ、自分は見えない何かの力に動かされているように思えてならない。それが課長の亡霊を見ていたからなのか、それとも彼女と知り合ったことで、自分の中で何かが変わったのか、分からなかった。
彼女を助けた時のことと、課長がこの世からいなくなったこと。そのどちらも俊一郎には衝撃的なことには違いない。
それぞれに対照的なことでありながら、どこかで繋がっているように思うと、そこに不思議な力が介入してくるのを感じたのも無理のないことだ。
――そういえば、諸刃の剣のような感覚があったな――
不安定な精神状態の中で、危なっかしさを残している俊一郎にとって、今目の前にいる彼女を好きになりかけているということだけは事実であった。
それにしても、人の死に対して悲しいという感覚ではなく、引っかかりがあっただけで、さらにある日を境に遠い過去になってしまったことに対して、俊一郎は釈然としない思いを持っていたのだ。何とも言えない不思議な感覚に包まれて、俊一郎はどこに向かおうというのだろう……。
◇
俊一郎が知り合った女性、彼女は名前を若菜という。
彼女は、近くでOLをしていたというが、今は仕事を辞めて、コンビニでアルバイトをしているという。
「私は、以前から嫌いな人を引き寄せるところがあるようなんです」
若菜が落ち着いてくると、いろいろと自分のことを話すようになってくれた。若菜が死んでも構わないと思ったのは、嫌いな人を引き寄せるところに原因があるのかも知れない。だが、そこまで分かってしまうと、
「じゃあ、僕も嫌な人の一人なのかい?」
と、少し嫌味っぽく言うと、
「いいえ、そんなことはないんです。今まででこんなことはなかったんですけどね」
と、不思議そうに自分のことを顧みながら答えてくれた。
「そう言ってくれると嬉しいよ」
と言いながら、
「君が死んでもいいとまで思ったことで、何かが変わったのかも知れないよ」
という言葉が頭に浮かんだが、それを言うのはよそうと思った。それを口にしてしまうと、せっかく落ち着いてきた精神状態を、また荒波に投げ出すことになりはしないかと怖かったのだ。
若菜は、俊一郎よりも三つ年上の三十三歳だという。二十歳代に知り合った男性と、結婚したいと強く思った時期があったようだが、その気持ちは叶わなかったという。
最初は、相手の男性の方が、若菜と結婚したいと強く思っていたようだ。プロポーズされ、それまで結婚についてほとんど考えていなかった若菜だったが、いきなりのプロポーズでビックリしたのか、すぐには返答は控えていた。
元々、若菜には結婚願望などなかった。
若菜にとっての結婚願望は、好きな人がいてからのことだったので、結婚したいと思う相手がいなければ、想像すらすることはなかったという。
それでも、二十歳代の女の子が結婚を考えないわけでもない。まわりは自然と結婚という話題を持ち込んでくるし、家族や親戚も、
「早く結婚して、孫の顔を」
などと口にしていた。
「そんな、私なんかまだまだ先よ」
と言いながら笑っていたが、その気持ちはそのまま持っていた。他の女性であれば、
――まんざらでもないわ――
と、冷やかしに聞こえて、結婚を再認識するのだろうが、若菜の場合は、確かに結婚を意識はするが、意識するところまでで終わってしまう。具体的なことを想像することもなく、
――結婚適齢期というだけね――
と、ただそう思うだけだった。
結婚について今までまったく考えていなかったわけではないが、具体的なイメージが湧かないのであれば、考えていないのと同じである。親も親戚も無責任なだけだと思ってしまうと、それ以上、何も考えられなくなってしまう。
そんな若菜だったが、前の会社では、まわりから、
――お局様――
だと思われていたようだ。
まだ三十歳前なのに、そう思われるのは、三十過ぎの事務員が、ある時一気に辞めてしまって、まだ若い女の子と、中間年齢だった若菜が残っただけで、自然と若菜だけが一人年上に押し上げられたのだ。
――今までは先輩がいっぱいいたので、何とかなっていたのに、今では私一人が年上になってしまったなんて、本当に最悪だわ――
と感じていた。
辞めた理由の一つにはそれもあったのだが、若菜を密かに好きだった男性がいて、彼が会社を辞めてしまったことにも理由があった。