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 こんなセリフを言われるなど、想像もしなかった。今まで一番接しやすいと思っていた人が、完全な「敵」になってしまうと、これ以上の辛さはない。
――世の中、皆が敵に思えてくる――
 人間不信、対人恐怖症、さらには、誰も信用できない思いは、自分に対しても同じことであった。
――酷いことを言われるのは、自分を追いつめることになる――
 ということを、嫌というほど思い知ったのだ。
 信じていた人が他人にしか思えてこなくなる反面、思い出すのは、付き合い始めた頃のことだった。
 楽しかった頃のことを思い出すのは、男性特有のことだった。この思いは、実は以前にも感じたことがあった。美沙と付き合っていた頃の自分がそうだった。楽しかったことしか思い出さないのだ。
「男は、危機が近づくと、付き合い始めの楽しかった頃を思い出すものだけど、女というのは、危機を迎えると、ある程度まで一生懸命に我慢するものさ。しかも相手には気付かれないように。その気持ちは分かる気がするが」
 会社の同僚と話した時に聞いた話だった。
「どうして分かるんだい?」
「例えば足が攣った時、俺はまわりに知られたくないと思うんだ。それはどうせ相手には痛みが分からないだろうから、不必要に心配されると、却ってこっちが萎縮してしまって、不安だけが増幅される気がするんだ」
「それは俺も分かる気がする」
「で、女は一生懸命に我慢すると、きっと自分の中で限界を作ってるんだろうね。男よりもその限界を熟知しているのだと思う。だから、必死に我慢できるんだろうが、限界が見えてくると、女はそれ以上、我慢しなくなる」
「それで?」
「後は何を言っても一緒さ。そこで女は自分の中で結論を出してしまうのさ。その時に離婚を考えたのなら、それ以上いくら説得を試みても同じなんだろうね。要するに、男が女性に対して、「危ない」と思ったら、もうそこで終わりなのさ。俺は似たような経験を何度もしているし、お前にもその心当たりがあるんじゃないか?」
 言われてみれば確かにそうだった。
「確かにそれは感じたことはあるが、まさか女房に感じることになるなんて、想像もしていなかったよ」
「それだけ男は呑気なのさ。何、お前だけに限ったことではない。俺にも同じような経験はある。だから、言えることなんだが、男というのは、学習しないというのか、忘れっぽいというのか、意外と同じことを繰り返してしまうものなんだよな」
 と言っていた。
「一番付き合いやすい相手に恐怖を感じるようになるなんて、想像もしたことがなかったよ」
「それが男女の仲というものかも知れないが、夫婦の絆なんてどこにあるんだろうって、思ってしまうよな」
 友達の話を聞いていると、ここまで男女の考え方に差があるなど思ってもみなかったので、ビックリさせられた。
 離婚の話が表に出てくると、後は早かった。
 敏夫としては、何とか粘ったつもりでいたが、敏夫にも男としてのプライドもあった。女性から一方的に離婚を言い渡されて、
「はい、そうですか」
 などと言えるはずもない。
 それでも、プライドが女性のいう限界のようなものだということを、その時に初めて気が付いた。
 もう、こうなってしまうと反発しかない。子供がいなかったのが幸いだったが、その時、美沙との間のことを久しぶりに思い出した。
――美沙には気の毒なことをした――
 そう思うと、自分が本当に好きだった女は、女房ではなく、美沙だったことに気が付いた。それが自分に限界を見せたのかも知れない。
――好きだと思っていたのは、幻想だったんだ――
 相手が好きで結婚生活をしていたというよりも、結婚生活の甘さが今までズルズル一緒にいる結果になったのではないかと思うと、それが、自分にとっての不安の原因であり、不安の原因が、そのまま限界を見せつけられる結果になってしまったのだろう。
 そこまで来ると、離婚までは早かった。相手にはハッキリとした離婚理由があるわけではない。一方的な言い分なので、もちろん、慰謝料など発生する余地もない。
「お前、いい時期に離婚したのかも知れないな、慰謝料や養育費で大変な奴が多いのを知っているからな」
 と友達に言われた。
 離婚したことで、しばらくは自由を堪能しようと思った。すぐにでも他の女性を探そうという気持ちも半分あったが、後の半分は、
――もうしばらく女性はいい――
 と思う自分もいた、
 それは、美沙を思い出している自分がいたからだ。
 美沙への思いは、離婚してから考えるようになった。それまでどうして思い出すことがなかったのか、不思議に思うくらいに、まったくそれまで思い出すことはなかったのだ。それだけ結婚生活がバラ色だったのか、それとも美沙への背徳の思いが、結婚生活の中で消去してしまおうという無意識の思いなのか、どちらにしても、少し遠回りしたが、美沙を思い出すことになるのだった。
 美沙を思い出していると、他の女性を考えようとは思わなくなった。思ってしまうと、せっかく自由になったという意識が薄れてしまうし、自由というのが、美沙を思い出すための大切な時間であるという意識とは違うものになってしまうのを恐れていたのだ。
 敏夫は、半年間、女性と付き合うことはなかった。
 半年経って、一人の女性と付き合ったが、すぐに別れてしまった。それは敏夫の心の中に、
――こんな女性と付き合うための、充電期間じゃなかったはずだ――
 というものがあったからだ。
 まだまだ妥協を許さない年齢だったのだ。
 それから十年の間に、数人の女性と知り合うことになるが、そのほとんどが、
――こんな女性――
 という思いでしかなかった。
 それは美沙と比較してしまうからで、美沙と比較してしまったら、今の自分には、どんな女性が寄ってきても、それ以上であるわけはないと思うようになっていた。
 就職や転職の時にも言うではないか。
「最初が一番いい条件で、変われば変わるほど、条件は悪くなるって」
 と、転職をひき合いに出して、話をする人がいたが、敏夫も、まったくその通りだと思ったのだ。
 数人の女性の中には、ひょっとすると、そのまま付き合っていれば、結構いい付き合いになったのではないかと思う人もいた。その理由は、
――この人となら、今の人生を変えられるのではないか――
 という思いがあったからだ。
 つまりは、敏夫の中には、人生を変えたいと思っている自分と、このまま美沙の面影を引きずったまま生きていきたいという思いを貫いていきたいという思いとが交錯しているのではないだろうか。
 そのくせ、美沙を探そうとは思わなかった。美沙と今さら会うのが怖いのだ。
 何を言われるか分からないというよりも、美沙と面と向かう勇気すらない自分を分かっているからだ。美沙がどういう女性に変わっているかというのが気にはなるが、それよりも自分に対してどう思っているかが怖いのだった。
 離婚するには、少し早かったような気がしたが、それも人生をやり直すには、早い方がいいと思ったからだ。だが、よく考えてみると、今までの人生で、やり直しが利いたような気はしてこない。どちらかというと、離婚してからの人生は急降下。ロクなことがなかった。
作品名:年齢操作 作家名:森本晃次