年齢操作
――私とお母さんの似ているところ、それは何事も「嫌だ」と言えないところなんだわ――
嫌だと言えないということは、相手主導になってしまって、相手が望めば何でもする。母親が軍人さんと不倫をしたのは、決して母親からの誘惑ではないだろう。相手の男性が強硬に押したのか、それとも、あまりにも純情なところが母親の「嫌とは言えない性格」に火をつけたのかのどちらかなのだろう。
相手を憐れむ気持ちは、嫌とは言えない性格というよりも、思っていることを正直に言えないことの裏返しに近い考えなのかも知れない。この三つの感情は長所短所の背中合わせの境界線上に微妙に存在しているのかも知れない、そう思うと、娘の美沙が同じような性格であったとしても、それはどれかが遺伝だったとしても、他の性格は、そこから付随したもので、育つ環境から委ねられてきたものだと言えるだろう。人の性格を司るものは、遺伝と育った環境だというではないか。それを強く感じているのが、美沙の方だったのだ。
美沙は、母親の不倫を知りながら、何も知らない父親が可哀そうだとは思わなかった。
――お母さんを放っておくから、こんなことになったのよ。仕事も大切でしょうけど、もっと家庭を顧みるようなお父さんじゃないとダメだわ――
と思っていた。
母親は、心の中に後ろめたさがあるからか、父親に逆らうことはできないだろう。その分、美沙が父親に睨みを利かせればいいのだろうが、どうやら、そんな睨みなど、馬耳東風。父親には分かっていなかった。
美沙の家庭の均衡は、その時はそれなりに取れていた。ただ、両親の関係は完全に冷え切っている。娘から見ると、修復が不可能なところもまで来ていた。
――どうして離婚しないのかしら?
当時はまだ離婚というと、
――戸籍に傷が付く――
と思われていた時代だったのかも知れない。
父親からすれば、出世に響くとまで思っていたのかも知れない。家族がバラバラになってまで、何が出世なのかとも思うが、父親の気持ちになってみれば、それも仕方のないこと。
――家庭の憂さは仕事で晴らす――
という気持ちになったとしても、当然と言えば当然である。
父親が何を楽しみに生きているかなど、美沙には関係のないことだった。もう、美沙の中で父親は見えてこない。鈍感なところは見ていると、腹が立つばかりである。
しかし、その思いは逆に自分が以前父親に憧れていたところでもあった。
――バカ正直なほど人を信じるところがあるわ――
子供から見ていて、父親のそんな性格はいい面しか見えてこなかった。悪い面、つまりすぐに騙されやすかったり、一点だけを見つめてしまって、まわりを見なくなるという悪い面での性格が出ていることを知らなかった。
それは無意識であろうが、巧みに父親が見えないようにしていたのかも知れない。自分のいい面だけしか見えないようにするという性格は、いいことなのか悪いことなのか、娘としては分かりかねるところであった。
敏夫にどのように言って告白したのか、美沙は覚えていなかった。
――放っておいたら、誰かに取られるかも知れない――
という意識があった。
敏夫は女性から人気があったが、なぜか誰かと付き合っているという噂が流れてくることはなかった。敏夫くらい女性に人気があれば、誰かと付き合っているとしても、誰も不思議には思わない。それなのに誰とも噂にならないというのは、普通に考えれば、性格的に何かあるからなのかも知れないと思って不思議はないだろう。
美沙の告白に敏夫は不思議がっていた。
「俺に告白してくる女性なんていないよ」
という敏夫を見て、
「だって、女生徒から人気あるわよ」
というと、さらに意外そうな顔をして、
「そうなのか? 俺は逆に嫌われているから、視線が痛いぐらいなのかも知れないって思ったほどだ」
美沙はそれ以上、その話題に触れなかった。これ以上触れてしまって、敏夫が自分がモテることに自信を持ってしまうと、このまま自分が捨てられてしまう気がしたからだ。敏夫ならそれくらいのことをしても不思議がないと思った。そんな冷徹なイメージのある敏夫をどうしてそんなに気にするのか、よく分からない。一つ感じるのは、彼の自分への視線が、他の女の子に対してのものと違うと思うからだった。
自分を他の女の子と違うという視線で見られることが、美沙には一番嬉しかったからだ。だからそんな視線をしてくれる敏夫を離したくないと思ったのだ。
敏夫と美沙は、結構お似合いのカップルだった。
デートと言えば映画に出かけたり、遊園地に出かけてみたり、まさに、
――憧れていたデート――
だったのだ。
子供の頃の憧れが、次第に大人の男女に変わってくる。
敏夫よりも美沙の方が、感受性が強い性格のようだった。それを美沙本人は、
――臆病だから――
と思っているようで、臆病なのが、幸いしているのか災いしているのか、考えてみた。
美沙は敏夫と付き合いながら、二人が結婚した後のことを想像していた。もちろん、結婚が甘いものではないということは分かってはいたが、実際に結婚したことがあるわけでもないし、想像だけなので、憧れだけしか頭に浮かんでこない。
どうせ想像だけなのだから、甘い夢であっても、それはそれでいいのだろうが、憧れが次第に相手を慕う気持ちより大きくなってくると、夢が現実か分からなくなってくる。
美沙にもそんな時期があったのだろうか。今から思えば、まだ頭が幼かったのだとしか思えない。デートに憧れていた時期、そして、彼に委ねたいと思った時期が完全に分かれていたことは自覚しているが、どちらの方が先に感じたことだったのか、すぐに忘れてしまったのだ。
付き合った時期もそれほど長かったわけではない。
したがって二人の間に破局があったのは、間違いないのだが、別れを意識した時期はそれほど長かったような気がしない。気が付けば別れを迎えたような感じだった。
美沙は別れが近づいた頃になって、初めて付き合い始めた頃に抱いていた憧れを思い出した。その思いは楽しいもので、その思いのまま付き合いを続けていれば、別れることなどありえるはずなどないと思ったほどである。
付き合い始めには、結婚してからのことを思うようになって、逆に別れが近づいた時になって、付き合い始めた頃のことを思い出す。この思いは、実は美沙だけではなく、美沙の回りの人たちも同じような考えを持っていたりした。
始まりには先のことを考え、破局が見えてきたり、出口が見えてくると、今度は始まりが見えてくる考えは、今後の美沙の性格を形作っていく大切なものとなってしまっていた。その考えは、本当は女性らしい考えではないような気がした。男性に多い考えで、男性の中でも力強さを感じない、弱弱しさを孕んでいるように思えるのだった。
美沙にとって、敏夫との付き合いは、まるでお忍びの恋のようだった。実際には皆の知っているところで、公認の仲だったのだが、自分の中では誰も知らない世界を二人の間で作っているという感覚しかなかったのである。