年齢操作
甘える気持ちがないことで、自分から相手の要望に応えることが、他の人の甘えのような感覚になっていた。同じことを考えているのは真美だけではない。真美には同じような考えの人がそばにいれば、その人が考えていることが分かる気がしていた。完全に分かるわけではないが、他の人が感じるよりも敏感になっているはずである。マヒしてしまった感覚もあれば、敏感になった部分もある。そのことに気付くと、真美は甘えることの代わりに、
――人に対して従順になっているんだわ――
と感じるのだった。
その気持ちは、好きになった人に対しても変わらなかった。余計に強くなった気もするくらいだ。本当なら、好きになった相手に対しては、自分の思いを打ち明けられ、他の人には話せなくても、彼にだけは相談できるというような関係が一番理想のはずである。
だが、甘え下手の真美には、そんな感覚はない。言い知れぬ怯えが真美を包んでいる間は、いくら好きになった相手であっても、甘えるような感情は生まれてこないのだ。
――嫌われたくない――
この思いが、彼に対して従順な自分を支配する気持ちだった。
そういう意味では最初から対等ではない。
「恋愛は、お互いに対等であるから、気持ちを確かめ合うことで、発展していくものじゃないかな?」
と、友達は言っていたが、他の誰もが、感心して頷いているにも関わらず、真美にはどうしても頷くことができなかった。
彼と付き合っていることが、本当に恋愛感情に繋がっているのか、真美には疑問だった。――好きだ――
という意識はあるのだが、それ以上に、
――嫌われたくない――
という気持ちが強くなった。完全にマイナス思考である。
感覚がいつの時点で変わったのか、それは結構早い時期だった。嫌われたくないという感覚は、もちろん相手を好きだからなのだが、そんなにすぐに好きになったということだろうか。
すぐに人を好きになるなど、自分でも信じられない。何かにいつも怯えていることから、まず、相手に対して警戒心を持つ。少しでも違和感があると、そこで気にすることを止めるか、警戒心が解けるまで気長に待つかであるが、後者は今までにほとんどなかったことだ。
嫌われたくないという感覚は、恋愛感情よりも、子供の頃の方が強かった。相手は母親で、父親がいない分、母親から嫌われると、見捨てられたことになり、自分が生きていけないことを、感覚で分かっていたのだ。
その頃から、
――嫌われたくない人には、逆らってはいけない。従うしかないんだ――
という気持ちになった。
それが当たり前のこととして日常の感情に含まれてしまうと、
――見返りを求めてはいけない――
と、無意識に感じるようになった。
母親からは、見返りなどなかった。きっと母親は、
――子供が親に従うのは当然のこと――
と思っているのだろう。その気持ちが真美の中にも蓄積され、
――従うことは一方通行であってしかるべき――
と思うようになっていた。
だが、子供の世界では一方通行ではなかった。人に従って、相手がしてほしいことをしてあげれば、
「ありがとう」
とお礼を言われる。
当たり前のことなのに、真美には涙が出るほど嬉しかった。
「どうして、そんなに感動するの? お礼をいうのは当たり前のことでしょう?」
と言われて、キョトンとしていると、
「これが感謝の気持ちというものよ。感謝の気持ちがあれば、自然とお礼を言いたくなるものなの」
感謝の気持ちという言葉を聞いて、最初はピンと来なかった。見返りを求めることなど考えられなかったからだ。だが、友達はこれを、「見返り」とは言わず、「感謝の気持ち」と表現した。目からウロコが落ちた瞬間だった。
それから真美は、見返りを求めるのではなく、感謝されたいという気持ちを持つように切り替えると、まわりを見る目も少し変わってきた。従順である自分の性格を個性のように感じるようになっていった。
個性ということを意識したのは、もっと後になってからのことだったが、人に従うことは悪いことではないと胸を張って言える気がしてきたのだ。それまでは、どこか寂しげな気分になっていたが、それは怯えの気持ちが強かったからだ。
好きになった人に対して真美は、同じような気持ちのままだった。彼は、真美の気持ちに感謝してくれていて、お礼を言ってくれていたのだが、そのうちに子供の頃に感じた「感謝の気持ち」とは少し違っていることに気が付いた。
それは、相手が自分との距離が近いからだということなのだろうが、それを理解することができなかった。どこか彼のお礼の言い方が、わざとらしく感じられ、まるで言い訳がましく感じられた。真美はそれを謙虚に受け止めようとしたが、感覚的には違ったようだ……。
◇
真美にとって正反対の性格、それは好きになった相手に対してだけのことだった。
従順な性格は、好きになった人に限らず、誰にでも起こりうることであったが、もう一つの性格は、誰にも知られてはいけない、それこそ「禁断の性格」だったのだ。
真美は彼以外の男性を、基本的に男性として見ていない。
――女性ではないが、男性としても見ることができない存在――
それは好きになった男性を、男性として見るようになったからであって、今から誰かを好きになる前に男性に対してどんな感情を持っていたかということを思い出すことは困難だった。
ただ、もしもっと前に誰かを好きになるとするなら、その人が自分の父親だったのではないかという思いが頭を過ぎったことはある。
――ないものねだり――
と言えばそれまでだが、父親が自分にいたという感覚が残っていないのは、小さい頃から父親がいなかったからで、母親に訊ねても、
「お父さんはいないの」
と言われるだけで、それ以上のことは言わなかった。
成長してみると分かってきたのは、
――きっと離婚したんだ――
という思いだった。嫌いだったのかどうかは分からないが、思い出したくないというのは間違いない。もし、死別だとすれば、そんな邪険な言い方はしないだろう。
だが、それも今度は彼ができてから、少し変わってきた。
――まさかとは思うけど、本当に死別なのかも知れないわ――
それは、自分のもう一つの性格に気が付いたからで、その性格こそが、自分の中にある「怯え」を克服しようとした気持ちの表れなのかも知れない。
真美が父親のことを気にしてはいけないと思ったのは、母親の頑ななまでの父に対しての冷たい言葉から、
――きっと自分に対しても、悪いことをしたのだろう――
という思いがあったからだ。その思いがあったからこそ、今まで父親のことを忘れようとしていたのだし、怯えの正体がそこに隠されているのかも知れないとさえ思うようになっていた。
その思いと同様に、
――人を好きになってはいけない――