年齢操作
予感のようなものも頭を巡った。それが本当に現実になったのが、真美と知り合ったことだったのだ。
同じような趣味を持っていて会話も弾む。それまでの自分が時間に流されるように毎日の流れに逆らわず、漂っていることで、
――このままただ年を取っていくだけなんだ――
とまで思った時期があったが、年を取るということが、衰えという言葉に置き換えることで、本当は自分がいつまでも「あの時」から、年を取っていないことを感じた。やはりいつまで経っても、あの時を思い出すと、まるで昨日のことのように思い出せるのだった。
真美と知り合ったことで、それが実際に、年を取っていることを感じないのだ。気が付けば、自分が二十代の時に考えていたようなことを考えていたり、実際に二十代になったような気分になっていて、ハッと我に返ることもあった。
そのくせ、真美には娘のような感覚を強く持っている。ただそれは本当は彼女にしたいという思いを持っているにも関わらず、それをまわりに悟られないようにしようという思いから、自分を若い世代に持っていくことで違った目線で見せようという無意識な思いなのかも知れない。
その時になって、
――離婚が決定した時に、俺の前に現れた気になる女は、美沙だったんだ――
と、感じた。明らかに今さらではあるが、どうして今さらその思いを感じなければいけないのか分からない。
――きっと夢に見たんだろうな。覚えていないだけで――
今、美沙がどこで何をしているのか分からないが、思い出してしまったことで、これからの自分の生き方に、微妙な変化が現れるのではないかと思うのだった。
――まるで人生をやり直しているかのようだ――
と感じたのは、美沙が訪ねてきたのだと思った次の日からだった。
年を一気に遡り、二十歳代に戻った気がした自分は、肉体は年齢そのままで、精神だけが若返った気がしたのだ。
肉体まで若返ってしまえば、本当に人生をやり直すことになるのだろうが、そんなことをしたいとは思わなかった。
――若返ったところで、結局は同じ人生を繰り返すだけなんだ――
と、半ば諦めかけの人生であることを感じていた。もしやり直せるとしても、どんな人生が待っているというのだろう。まったく真っ白な状態の二十歳に戻るわけではない。一度通ったという記憶を持ったまま戻るのだ。
「では、記憶を消して戻ることができるとするならどうだい?」
と聞かれたとするならば、
「いや、それなら、なおさら嫌だ。まったく違う人間になってしまうということだろう? それじゃあ人生をやり直すということにならないじゃないか」
当たり前のことを答えた。そんな質問をしてくる人はいないとは思ったが、人生を半ば諦め気味に考えていることの裏付けを確認したかっただけなのだ。
では、どうして頭の中だけは二十歳代に戻っているというのだろう? その時に何かやり残したという意識があり、それを思い出そうとしているのだろうか? どちらかというと、二十歳代前半は、あまりいい思い出はない。大学の卒業が危うかった記憶と、就職も危なかった記憶は鮮明に残っている。記憶に残る夢の中で、同じ夢を何度も見たというのは、その頃の夢が多かった。
卒業している意識はあり、社会人になっているにも関わらず、なぜか大学の図書館で卒業試験のための勉強をしている。そして図書館を出ると、とっくに自分と一緒に卒業し、就職していった友達が、スーツ姿でキャンパスを歩いているのだ。
「お前も早く卒業しろよ」
と、声を掛けられる。
「えっ、やっぱり俺、卒業していないのか?」
「何言ってるんだ。じゃあ、どうしてお前は図書館で勉強しているんだ?」
友達の口から、敏夫が卒業できたのかどうかという答えは聞くことができなかった。その時に、
――これは夢なんだ――
と、悟ることができた。自分の夢だから、友達は核心部分には触れないんだ。夢を支配しているのはあくまでも自分であって、潜在意識の外での考えは生まれてこない。それを思い知らされた気がした。
もし、人生をやり直すとしたら、大学入学からになるだろう。
だが、大学入学からやり直す気は毛頭ない。将来の自分が分かっていることで、誘惑に負けないだろうと思うのは今の状況の中にいるからで、もしその場面に戻ってしまうと、いくら将来の記憶が残っているとしても、もう一度同じことを繰り返すだろう。
同じ人を好きになって、同じような失恋をする。そんなことを思い浮かべてみると、人生、やり直しが利いても大差はないだろう。却って過去の記憶を未来に置き換えることでの自分の中の葛藤に耐えられるかどうかが問題である。
自分の人生の分岐点とも言える離婚という事件を経験したまさにその時、過去の思い出であったはずの女性が現れた。そのことが自分を過去に連れ戻すきっかけになり、意識だけが、昔に戻ってしまった。精神的に二十代に戻ってしまったという感覚は、やり直したいとは思わないまでも、何か忘れてしまったことを思い出そうとする意識の表れなのかも知れない。
敏夫は、今でもその時のことを思い出す。離婚したことのショックよりも、美沙が自分に会いに来たという事実。何も言わずに自分の前から消えてしまったということ。そしてその時に自分の精神が二十歳代に戻ってしまったということ。それぞれが走馬灯のように堂々巡りを繰り返しているようだった。
美沙が現れたことと、二十歳代に精神が戻ってしまったことは、やはり何か過去に忘れてしまったことを思い出させようとする何かの力が働いていたのかも知れない。それは、自分に対してのことなのか、自分を取り巻く環境までひっくるめてのことなのか分からなかったが。今から思い返すと、後者だったような気がする。
今になってそのことが気になってしまっているのは、真美が自分の前に現れたからなのかも知れない。娘のように可愛い真美に対し、娘とは違う感覚を、自分の中の男の部分が持っていることも隠すことのできない事実である。もちろん、悪いことではないはずなのに、自分自身にも隠そうとする気持ち、いくつかの気持ちや性格が自分の中に存在していることは分かっていたが、今になってそれぞれの自分の性格が表に出て来ようとしている。自分は一人なので、表に出てこれるのは、一種類の性格だけである。そのどれが本当の自分の性格なのかを誰が判断できるというのだろうか?
敏夫は自分の性格を把握しかねているようで、以前にも同じような感覚に陥ったことがあったのを思い出していた。
――そうだ、あれがちょうど今感じている年齢の頃だったような気がする――
あの時も、以前に同じような感覚に陥ったことがあると感じていたが、過去を思い起してみても、そんなことを感じたという意識は記憶の中にはなかった。感覚として感じているだけで、過去に感じたという思いに違和感はない。ひょっとすると、未来に感じるであろう今のことを、その時に予期していたと考えるのはあまりにも突飛なことであろうか。