年齢操作
それは、一点でしかモノを見ることができないということである。夢では、客観的に見ることができるのに、現実世界では、客観的に見ることがどうしてもできない。目が覚めてから夢の内容を覚えていないのは、夢を見ている自分と、現実世界での自分があまりにも差があるからなのかも知れない。
他の人と夢の話をした時にも同じような意見をよく聞く。
「夢で見たことを覚えていることなど、ほとんどないからな」
と、誰もが同じような感覚を持っていることに、何ら疑問を感じたことがなかったが、本当に皆が、夢で見たことを覚えていないのだとすると、夢の中の目線と現実世界での目線が皆同じように違っているからなのか、それとも、敏夫の考えすぎで、本当は目線の違いが夢を覚えていないものとするのではないということの、どちらかなのであろう。
真美と一緒にいると、遠い記憶がよみがえってくることがある。それは美沙の記憶であり、忘れてしまったと思っている美沙の表情を、真美の中に垣間見ることができる。
――あの時は忘れてしまうしかなかった――
別れが決定的になった時から、忘れてしまわなければいけないということは重々分かっていた。分かっていて、忘れるまでには、相当の時間が掛かった。
――これだけ時間が掛かって忘れたのだから、もし思い出したとしても、それは思い出として思い出すことであって、それがいい思い出として思い出すのか、悪い思い出として思い出すのかは分からない。きっとその時の自分の心境によるものに違いない――
穏やかな気持ちの時に思い出すのであれば、きっといい思い出として思い出されるものであろうし、気分が少しでも穏やかでなければ、悪い方の思い出として思い出すに違いない。だが、今回はそのどちらでもない。まるでまだ美沙への未練が残っているかのような思い出し方になってしまい、いい悪いの問題ではなくなっていたのだ。
それは、真美を見ていて、美沙との子供を思い、さらに、美沙本人を思い出させるという複雑な心境になっているからだ。
もう一つは、思い出したくもない、元女房のことまで思い出してしまっていることだ。元女房とのことは、いい思い出であるはずがないにも関わらず、美沙とのことよりも、先に思い出として封印されていくような気がするのだ。
――ここで思い出すというのは、ひょっとすると、元女房のことを思い出として封印するために通らなければいけない道を歩んでいるということなのだろうか?
という思いが頭を巡っていた。
敏夫は、今真美の存在を、美沙や、元女房の思い出を通してしか見ていないことに気が付いた。
真美はそんなことに気付いていないかのように、敏夫を慕ってくれている。美沙もどこか分かりにくいところがあり、何を考えているか分からないところがあったが、そのことを敏夫はあまり深く考えないようにしていた。深く考えてしまうと、せっかくの第一印象から続いているイメージが崩れてしまいそうな気がしたからだ。それは今思い出すと分かることであり、真美と付き合っている時には分からなかった。それを
――若かったから――
として見過ごしてしまおうとする自分がいることに気付いた。敏夫は一つのことに気が付くと、いろいろなことに頭が巡る方だ。すぐに結論が出るわけでないが、一旦目からウロコが落ちると、考え方が一つに定まって、一つの大きな結論を見出すことも難しくなくなっていくのだ。
一つのことに気付くのに少し時間が掛かるのが、敏夫の特徴だった。理由は二つあり、一つは考えが堂々巡りを繰り返すこと、そしてもう一つは目線を変えてモノを見ることがなかなかできないことから、すぐには気付かなかった。
しかし、一つのきっかけが生まれると、そこから生まれる発想は、放射状に目を移すことができるようになる。自分のこととなると難しいが、自分を取り巻く環境であれば、角度を変えることで、いくらでも発想が生まれることを、本能で悟っているのかも知れない。
敏夫は真美のことをどのように見ているのだろう?
時々、娘のように、そして時々、一人のオンナとして……。
その二つが同居することは普通ならありえないことだと敏夫は思ってきたが、真美に対してだけは、そのどちらも同じ時に感じることができるように思えてならない。それだけ真美が自分にとって特別な存在なのか、それとも、真美の見つめる目が、他の女性と違って、敏夫の考えを奥深くまでえぐることのできる視線になっているのではないだろうか。
敏夫は真美と毎日会っているわけではない。お互いにプライバシーは尊重するようにしている。
しかしある時真美が、
「敏夫さんとは、ずっと一緒にいるような気がするの。一緒にいない時でも、そばにいてくれるような気がしていることが、私には嬉しいの」
この一言にドキッとして、敏夫も自分を振り返ると同じ考え方を持っていることに気が付いた。考え方はするものではなく、「持つもの」だということを、その時悟ったのだった……。
◇
敏夫には意識のないことなのだが、敏夫が離婚してから、一度美沙が敏夫に会いに来た。すっかり当時と変わってしまっていて、やつれが見えている美沙を、結局最後までその人が美沙であることに気付かなかった。
会いに来たといっても、美沙が自分のことを話したわけではない。本当は自分が美沙であること、そして昔のことを少しでも話ができると、その時に悩んでいたことが、少しは解消されると思ったのだ。
美沙だって、別れた時のことを思い出すのは苦痛だった。本当であれば、二人は会うべきではなく、お互いにそれぞれの人生を歩んでいくのが一番なのだろうと思ったのだが、その時の美沙の悩みは、敏夫と話すことで少しは解消されると本気で考えていた。藁にもすがる気持ちだったと言っても過言ではないだろう。
敏夫がちょうどその時、離婚したという話は聞いていた。離婚してショックの相手にまるで追い打ちをかけるような惑わせ方になるかも知れないと思ったが、それでも敢えて会わないと自分がおかしくなってしまうのではないかと美沙は感じたのだ。
実際に美沙は、敏夫が忘れられないと思っている程度のショックではなかった。妊娠したことで、美沙はまわりから、
――どこの馬の骨とも知れぬ男に孕まされた女――
として、見られてしまっていた。いくら美沙が悪くないとはいえ、世間はそんな目では見てはくれない。男の敏夫は別れるだけで済むのに、残った女とすれば、子供のこともあり、精神的におかしくなっても仕方がないだろう。
子供を産み落としてから、しばらくは田舎で養生していた。
「もう、男性はこりごりだわ」
と、口に出してまわりに話していたが、それは口に出すことで、痩せ我慢を信念として感じることと、まわりに対して余計な気を遣わせたくないという思いから、半分は心にもないことを言っていた。
確かに男性はこりごりだという意識はあるが、敏夫ともう一度やり直したいという気持ちが失せていたわけではない。ただ状況がそれを許さない以上、痩せ我慢でもしなければ、やってられないという気分になっていた。やけっぱちな気持ちになっていたのかも知れない。