年齢操作
それまで、子供を可愛いと思ったことはなかったのに、もう一人の自分に抱き付くようにしてなついている女の子を見ると、他人事ではない。
中学生の頃に、
「妹がほしい」
と思ったことはあったが、ここまで年の離れた妹を想像したことはなかった。せめて三つ違いくらいまでなら想像はできるが、これだけ小さな子供に対して中学時代の自分が、ここまで優しい顔をできるということにビックリしていた。
――こんなに満面の笑みを浮かべているのに、どこか寂しそうに見えるのは、どういうことなのだろうか?
笑みがあまりにも満面なので、却って、寂しさが底知れないものに感じられて仕方がなかった。笑みにわざとらしさを感じるわけではない。ただ、
――この子は、自分の本当の気持ちを顔に出すことのできない娘なんだ――
という意識があった。
それはあまりにも嵌った表情をしている相手が信じられないと思っている敏夫だからこそ、まるで天邪鬼のような考え方をしてしまうものであった。だが、本当に彼女の気持ちを感じたのは、面と向かって見つめられている主人公である自分なのだ。
――父親を見つめる眼差し――
そう感じた時、
――もし娘ができたら、この子なんだろうな――
と思わせるに十分だった。
怖い夢を見るという意識があるということは、夢の中にある本当の真実を見てしまったことへの恐怖なのだと思うようになった。
となると、それが怖い夢であるがゆえに、見つめられた自分が感じたことは、誰が何と言おうとも、自分だけの真実だと思う。その時に、娘ができるのだと確信した自分を感じたのだった。
以前ほしいと思っていたのが妹で、今は娘がほしいと思っているということは、自分がそれだけ年を取った証拠だとも言えるだろう。敏夫は、そんな時に夢を見た。それは自分と美沙、そして娘の三人で暮らしている夢だった……。
◇
そこは団地だった。それは二十年前くらいに見た、高度成長の証であった団地である。頭の中では、
――団地など今さら――
と思っているくせに、まわりをキョロキョロしながら、置いてあるものの懐かしさに昔の自分を照らし合わせて見ていることが無意識であることに気付かなかった。当時としては最新式だったものも、今ではほとんど見ることもできなくなった。その象徴がテレビであり、電話であった。これが女性であれば、台所まわりにも気が行くのだろうが、あいにく男の敏夫が気になるところは限られている。
家族構成は、敏夫が一家の大黒柱、妻には美沙、そして娘は真美だった。
――真美と知り合ったことで、こんな夢を見てしまったのだろう――
それまでに団地はおろか、美沙の夢すら見ることはなかった。美沙の夢はわざと見ようと思わなかったのだろう。夢というものは都合の悪いことも含め、大体は目が覚めてくるにしたがって覚えていないものである。
それは、本当に覚えていないのか、覚えていたことを、目が覚めた瞬間に忘れてしまうのかのどちらかであろう。一度覚えていようと思ったことを目が覚めた時に忘れたと感じる時は、本当は、記憶の奥に封印しているのかも知れない。
封印した記憶が何かの拍子に飛び出してくることもあるだろう。記憶を封印したのと同じシチュエーションになった時、その時の相手と一緒にいる時、そしてその人と別れた後でも、その人のことを思い出した時など、いろいろなパターンが存在しているのかも知れない。
団地は今から思うと狭いものだった。
団地というと、今から思い出せば、人を押し込めるような圧迫感を感じる。自分の部屋があると言っても、カギが掛かるわけでもなければ、扉を閉めても、防音設備が付いているわけでもない。家族で住んでいるとはいえ、本当のプライバシーが守られているなどということはなかった。
――家族で住んでいるんだから、プライバシーなんて、あってないようなものだったんじゃないかな?
と後から思うと、本当に酷いものだった。
だが、敏夫は団地の生活が嫌いではなかった。それよりも家族が嫌いだった。仕事が終わればいつも定時に帰ってくる父親を待っての食事になる。
「家族揃って食事を摂るのは当たり前のことだ」
堅物の父親のイメージが団地の中から湧いてくる。朝起きてすぐなど食べれるわけもないのに、
「朝飯を食べないと力が出ない」
という理屈の元、イヤイヤ食べていたのを思い出す。
今はその反動からか、朝食を家で摂ることはない。それは大学時代から同じで、それなら少し早く家を出て、駅近くにあった喫茶店でモーニングサービスを食べる方がよっぽどいい。
家族の集団行動が嫌で嫌で仕方がない原因のほとんどは、食べたくもない朝食を食べさせられたというイメージに尽きるといっても過言ではないだろう。
家族の集団意識の犠牲となっていた時期は高校生の頃までだった。
大学に入ると、家から通えないところに変わったことで、自由だったのだ。もっとも、最初から家から通えない大学を目指すのが目標で、口が裂けても言えないことだったが、もう今となっては時効であろう。
――人と違っている――
と言われることに違和感を感じず、しかもそれを自分の個性だと思っているのは、親との集団意識の呪縛から逃れたいという気持ちがあったのも否めない。人と違った性癖であってもその人にとっての個性。敏夫は、平凡な自分であれば女性からモテモテであったとしても、たくさんの女性からモテる必要などなく、個性的な自分を分かってくれる人が一人いればそれで十分だと思っていたのだ。
まだ頭の中は大学に入学してすぐの頃だった。結婚ということもまだ頭の中にあったとしても、具体的なイメージなど湧いてこない。せいぜい父親を見ていて、
――俺も同じような一家の大黒柱になるのかな?
と漠然と感じる程度だった。
ただ、感じる反面、
――こんな家庭を作りたくない――
という意味での反面教師が父親を中心とした家庭。皆バラバラというのも寂しいが、何でもかんでも家族一緒というのは、子供の頃の経験で、寂しさを感じることよりも嫌だった。
ただ、夢に出てくる家庭には、嫌な気分はなかった。自分が一家の大黒柱なのだから、その気持ちも当然なのだが、家族三人を表から見ていて、皆が無表情なのが気になっていた。
――そういえば、俺も子供の頃、押し付けられた環境の中で、無表情だったような気がする――
ただ、ずっと無表情だったわけでもない。あまり口うるさくない父親ではあったが、口を開くと、文句しか言わない。普段は喋ることをせずに黙っている人間ほど、何かを言いたい時というのは、堪忍袋の緒が切れた時なのかも知れない。
子供としては、親が一体何に憤慨しているのか分からない。分からないことを勝手に怒っているのだ。それには埋めることのできない親子の性格の違いがある。親子なので性格は似ているのかも知れないが、性格が似ているだけに、相手が考えていることが分かることもある。そこが自分の考え方と相容れないものであるならば、それは、間違いなく、親子の埋めることのできない大きな性格の違いなのであろう。