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 凍った空気が表に出る時、寂しさが表に吐き出されたのではないかと思った。
 ソファーになだれ込むようにして倒れた時、帰り着いたことで安心したのか、そのまま眠ってしまったようだ。目が覚めてからきちんと扉が、カギまで閉められているということ、そして、靴も綺麗に揃えて脱がれているところを見ると、無意識ながらに、
――部屋の中に入るんだ――
 という意識が働いていたことを示していた。
――俺って意外と几帳面なんだな――
 と感じた。
 普段は、綺麗に片づけることを嫌う敏夫だったが、本能だけで行動する時は、意外と綺麗にするようだ。
 これこそ、親の教育の賜物と言えるだろう。
「整理整頓をしなさい」
 子供の頃に、親や先生から散々言われた。それなのに、敏夫は反発心を持って、決して綺麗にしようとはしなかった。だが、酒に酔っぱらった時などの後から思い返さないと意識が飛んでしまっている時、結構綺麗に整えていた。
――無意識に綺麗にすることを身体が覚えているのかも知れない――
 このことも含めてであるが、
――俺の中にはもう一人いるのかも知れないな――
 と思うようになっていた。
 二重人格というわけではない。もう一人の自分というには、どうしても交わることのない性格があり、平行線を描いている自分がいるのだ。それはまるで、
――五分前を歩いている自分――
 を見ているようだ。
 小説を書いていて奇妙な話を考えている時には、いつも時間や時計という発想が頭を離れない。前を歩いている自分を見ることはできないが、数秒後には、目の前を自分が歩いているという意識はある。ただ、そうなると、時間の区切りによって、平行線を描いている自分が無数にいることになる。題材としては魅力的なことだが、現実的に小説で描くのはかなりの無理があるだろう。
 自分を複数感じるのは、それだけ無意識に、寂しいという感情を押し殺しているからなのかも知れない。
 五分前を歩いている自分を想像してみると、一つの疑問にぶち当たった。
――五分前の自分は、今の自分と本当に同じ人間なのだろうか?
 という考えである。
 少なくとも今、五分前を考えている自分と一番の違いは、五分前の自分は、さらに五分前の自分の存在をまったく意識していないということである。あと数分すると意識することになるのだろうが、本当に意識するのだろうか? あくまでも可能性の問題であって、まったく同じ考えや行動を描くものだと思えば、それはすごいことのように感じる。それだけまわりも寸分狂わず五分を過ごすはずだからである。
 同じ人間だとすれば、却ってまったく同じ行動を取るのを不思議に感じるのだ。さっきまで何の疑問も感じずに、ただ何かを考えているということだけは確かであったが、五分も経つと、その時に何を考えていたのかなど分かるはずもない。時計を見ながら考えたりしないからだ。
 五分という単位を考えなければどうだろう?
 自分を中心に、前後に鏡を置いた時の感覚を思い浮かべれば、無限に自分の姿を映し出す鏡を見ていて、目を離すことができずに釘付けになってしまうことだろう。無意識であっても、おかしな感覚に包まれて、時間の感覚すらなくなってしまっているに違いない。
 一人の部屋に帰りついて、ソファーになだれ込んだ瞬間、鏡が目の前にある感覚を覚えた。そこに無数の自分が映っていることで、後ろに鏡があることも分かったが、振り向くだけの気力はなかった。
 もう一人の自分を意識したからなのかも知れないが、鏡を見たのが眠りに就く前だったのか、それとも夢の中でだったのかも分からない。
――夢なのか、幻なのか――
 夢の方が納得できるが、幻なら少し理屈が必要だ。その理屈がもう一人の自分への思いであり、ただ、理屈をつけるのなら、もう一人の自分を意識させる必要がある。もう一人の自分への説得力は、夢の中にしか存在していないような気がしているのだった。
 今では、その気持ちを納得させるための理屈に寂しさが影響していることは分かる気がした。
 部屋の中に入った時に足元から流れ出た冷気は、室内が真空状態であったという証明でもある鼓膜の痛みに対し、明らかに矛盾している。真空状態であれば、表の空気を取り込もうとして、中に取り込む力が働くはずだ。それなのに身体を引っ張る力は何もなく、足元から冷気が流れてくるだけだった。
 だが、本当はこの現象の方がごく自然なのだ。真空などという意識を持ってしまったのは、真っ暗な部屋の中に、冷気が這い出してくる現象を知った後だった。最初に足元に冷気を感じ、次の瞬間に、鼓膜に違和感を感じた。足元の冷気は、最初から想像の域だったが、鼓膜の違和感は、想像していなかったことだ。むしろ、足元の冷気からの発想が、鼓膜の違和感に繋がったといってもいい。
――ということは、他の時であれば、鼓膜の違和感を感じることはなかったというのだろうか――
 体調が優れず、全身が敏感になっていたことで、今まで意識もしていなかった鼓膜の違和感を、いつも感じていることのように思うのは錯覚に違いない。それだけ普段は感じたとしても、錯覚に感じてしまうほど微妙なものなのだろう。
 そういえば、一番怖い夢というのはどういう夢なのかということを考えたことがあった。中学生の頃に考えていたと思うが、今でもその時に考えていたことを思い出すことができる。
――もう一人の自分が夢の中に現れるのが怖かった――
 もう一人の自分が、夢を見ている自分を見ているのだ。その夢に出てくる主人公は自分であり、夢を見ている自分がいる。夢を見ている時はそんな意識を感じないのだが、夢から覚めて夢を思い出すと、そういうシチュエーションでなければ説明できないのだ。もう一人の自分というのは、第三の自分であり、第三の自分は夢の中の主人公である自分を睨んでいる。
 この時だけ、表から夢を見ている自分の意識が、主人公である自分に移ってくるのだ。急に移ってくるので、目線が完全に違っている。高いところから低いところに移ってきて、しかも相手から見えていないということで、安心していた自分が急に強い視線に晒されたことだけでもビックリするのに、しかも相手が自分だと思うと、完全に萎縮してしまったのだ。
 なぜなら、表から見ている自分には、夢の中でもう一人の自分が現れたことは、分かっていないのだ。誰かがいるのは分かっても、それがまさか自分などという発想は、まったくもって持ち合わせていない。
 中学時代に見たもう一人の自分の夢とは別に、大人になってから見た夢でももう一人の自分を見たことがあった。それがいつのことだったのかハッキリとしないが、たぶん、結婚前だったのではないかと思う。
 もう一人の自分は中学生の頃に見た自分だった。大人になっているはずの自分を、夢の中で見ていたはずなのに、もう一人の自分が現れた瞬間、主人公の自分も中学時代に戻っていた。
 もう一人の自分の横に、一人の女の子がいた。
 その女の子は、もう一人の自分になついている。幼稚園の制服を着ていた。黄色い帽子に黄色い鞄、ふっくらした頬を指で突いてみたくなるほどだった。
作品名:年齢操作 作家名:森本晃次