年齢操作
すべてが終わった後、それまでの美沙はどこにもいなかった。震えが止まらず、怯えきっている美沙を見た時、我に返った敏夫は、自分がしてしまったことに後悔を感じたが、すぐに、
――やってしまったことは仕方がない――
それまでの不安が消え去ったかのように、美沙を見ることもなく、自分の中だけで解決しようとする気持ちを感じた。
それでもしばらくは、二人の感情が近づくことはなかった。身体を重ねたからといって、急に相手に対して責任を感じたり、束縛を感じたりするのが嫌だったからかも知れない。そんな思いが自分の中で消化されていくと、美沙に対して愛おしさが深まっていったのだった。
「敏夫さん、本当に私と結婚してくれるの?」
「ああ、結婚しよう」
結婚ということに対して、それ以上の会話はなかったように思う。あれよあれよという間に、外部の力が働いて、二人は引き裂かれたのだ。
それからの敏夫はしばらく抜け殻のようになってしまった。無理もないことである。美沙に対しての気持ちもしっかり固まっていたはずなのに、後から思い返しても、どこまで真剣だったのか、疑わしいだけの感情しか残っていない。真剣だった気持ちをここまでいい加減にしてしまうだけの外部からの力に、敏夫は何も考える気力も失せてしまったのだ。
結婚した時も、
――結婚なんてこんなものなんだ――
と思うほど、アッサリした気分だった。一番好きな相手と一緒になったわけではないことは自分でも分かっていたし、元女房も最初から分かっていたようだ。それでもいいという相手だったからこそ結婚したのであって、少しでも気にする相手であれば、結婚などするはずもなかった。
考えてみれば、嫉妬してくれる方が、自分のことを真剣に考えているのだから、ひょっとしたら、離婚もせずにうまく行っていたのかも知れない。元女房と離婚するに至った時に、
――こんなに冷静な女だったんだ――
と、今さらながらに思い知らされた気がした。冷静なところがあるのは分かっていたが、すべての態度がまるで事務的に感じられ、離婚する時に、どこかで自分が切れてしまったことを意識できた。しかし、どの段階だったのかというと曖昧で、気が付けば、切れていたというべきであろう。
離婚してから、何人かの女性と付き合ったが、その誰もが元女房よりもさらに冷静な女に感じられた。
事務的な態度は腹立たしさを呼び、打算的な態度に見えてくると、もう相手が信じられなくなる。
セックスも事務的だった。恩着せがましさを感じてしまうと、ウザったさしか残らない。次第に女性というものに対して嫌悪感を持つようになり、しばらく女性と付き合うのが嫌な時期があった。
それでも、寂しさだけは人並みにあった。何を寂しいと感じるのか分からないが、一人でいることが気楽だと思っていたはずなのに、どこに寂しさがあるというのか。寂しさというのは、いつでもどこでもその人のそばにあり、それを感じるか感じないかというだけの問題なのかも知れない。
男性が女性を求める、女性が男性を求めるということは、言葉をいかに変えようとも、
――寂しさを解消させる――
という気持ちが真実であり、別れが訪れるのは、その人では本当に寂しさを解消できないということを感じた時に、別れるという言葉が頭を過ぎり、そのことを感じてしまうと、別れという事実に引き寄せられるように動いてしまう。それが無意識であればあるほど、別れの原因が曖昧になり、
――相手を嫌いになったからだ――
という理由に自分を納得させようとする作用が働くのだ。
――美沙のような女は、もう現れないに違いない――
と頭の中で分かっていても、それでも女性を求めてしまう。いつのまにか事務的な態度に対しても慣れてしまい、ただ、女性を求めることだけが、自分の寂しさを紛らわせる手段でしかないと思うようになっていくのだ。
美沙が自分にとってどれほどの女だったのかというのを、本当に思い出すことはできないだろう。
――美沙のすべてを知っていたわけではない、もっともっと知りたいと思う。だから、離れられないと思うのだし、好きだという感覚は嘘ではないと自分を納得させることができるのだ――
と思うようになっていた。
女性と惰性のように付き合うようになると、どれほど毎日が波乱万丈であろうとも、長い目で見れば、
――何も変わらない日々が、流れるように過ぎていった――
と感じるだけだ。
年齢を重ねるごとに毎日があっという間に過ぎる気がしていたのだが、女性と惰性で付き合っているということを自覚するようになったことで、毎日に少し変化を求めるようになることが、あっという間に過ぎないようになるだろうと思っていた。
毎日の変化だけでは、あっという間に過ぎないようにはできなかった。根本的なことから何かを変えないといけないと思っていた。そのうちに毎日が少しずつ変わってきているような気がしたのだが、それが自分の女性の好みの変化にあるのだと気が付いた時、少しビックリした。
――女性の好みが、そう簡単に変わるわけはない――
もし変わるものだとすれば、自分の性格が優柔不断であるということを証明しているようなものだ。
結婚ということについても、離婚してすぐは、
「いい人がいたら、再婚したい」
と思い、最近逸りのお見合いパーティにも積極的に参加した。年齢的には幅広い人が参加していて、年齢別と言いながら、主催者側も少々年齢設定から外れていても、委細構わないといった感じである。
四十歳代中心のパーティに、平気で二十代の女の子が参加している。大勢で参加している人もいるが、単独で参加している人もいる。
中には真剣に結婚相手を探している人もいるだろうが、中にはいかにも、
――サクラではないか?
と思しき人もいる。
どちらも、「中には」という発想なのは、実際にどちらが多いのか、さっぱり分からなかったからだ。
人は見かけによって、どちらとも取れる。同じ人でも右から見たのと左から見たのとでは性格がまったく違って見える人もいる。団体を違う角度から見れば、全然違う様相に見えるのも仕方がないことで、全体を見渡しても、一人一人を見ても、まったく違って見えてくるから不思議であった。
結婚というものも同じようなものではないだろうか。
まったく知らない相手と、これからずっと一緒に過ごしていこうというのだから、少しでも違う角度から見た時に、果たして自分の許容範囲であるかどうか、大きな問題だ。結婚する前にそのことが分かれば、まだ対処もできるが、結婚してしまってから、
――しまった――
と思ってもあとの祭りである。
いくら離婚が昔のように大っぴらな恥だと思わなくなったとはいえ、一度離婚経験のある人間には、
――そう何度も、あの時のようなエネルギーを使いたくない――
と思うことだろう。
「離婚は、結婚の何倍もエネルギーを使うものだよ」
と言って、離婚を考えた時にまわりの人からの説得に、このセリフがあった。離婚前には分からなかったが、実際に離婚してしまうと、どれだけのエネルギー消費があったか、今さらながらに思い出すだけでも、気分のいいものではない。
結婚した時のことを思い出すと、