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 と、笑いながら話していた。性癖に限らず、考えていることはよく分かっているようで、そのおかげで、会話が敏夫のことが多いというのも、皮肉なことである。
「すぐに顔に出るということかな?」
「そういうことね。あなたに隠し事はできないのよ」
 と言われてしまうと、それならいっそ、オープンで行こうと思うのも無理のないことで、敏夫は行動パターンを見抜かれていることが却って安心だった。
 自分には性癖以外に後ろめたいところはないと思っていたからだ。すべてを分かってくれていると思えば、不安感など存在しない。それが夫婦間で、敏夫の立場が大きくなったと自分で思い込むきっかけになった。
 それがいつしか横柄になっていたのかも知れないと、離婚して少ししてから感じるようになった。別に考えようと思って考えていたことではなく、自分を顧みることが多くなったことで、自然と感じたことだろう。そのせいもあってか、離婚した時にはその理由がすぐには分からなかったが、離婚した原因が少しずつでも分かってくると、最低まで落ち込んだ自分が、その状況に少し慣れてきたような気がしていたのだ。
 かといって、そこから這い上がるほどのエネルギーはなかった。逆に新鮮さが次第に薄れていく。離婚してすぐは、最低に落ち込んだと思いながらも、
――後は這い上がるだけだ。まだ若いんだから、彼女だっていくらでもできる――
 と思っていた感覚が、新鮮で、這い上がるためのエネルギー貯蓄になっていると思っていた。
 だが、慣れていなかったからなのか、それとも自分の立場をハッキリと自覚していなかったせいなのか、その時にしておかなければいけなかったはずの貯蓄をしていなかった。それが這い上がることではなく、最低ラインの居心地に慣れてしまうという結果を産んでしまったのだ。

                   ◇

 最低ラインから次第に這い上がってきたのは、趣味を持つようになってからだった。
 ただ、一つのことに興味を持ってもすぐに諦めてしまう性格は以前からあったことだ。実際に中学の時の絵画にしても同じだったが、それでも、
――趣味を持ってみたい――
 と思ったのは、悪いことではないだろう。
 四十歳になった今でも趣味を持つためには何かきっかけがいる。
 本を読んで感動した小説を見て、読書に嵌ったこともあった。人からもらった券で映画に行くと、意外と面白く、映画を見歩いたりしたこともあった。趣味といっても、受け身のものが多く、ただ、映画にしても読書にしても、芸術的なことに親しむのは嬉しいことであった。
 高貴な気分にさせてくれるという思いもあり、その瞬間だけが、どん底から這い上がっている自分を想像することができた。
 ただ、そのどれもが自分のモノとなったわけではないので、中途半端であったことは否めない。
 自分のモノになったという意識を持つこと自体がおかしいのだ。受動的な趣味は、自分のモノになるという感覚ではなく。あくまでも、教養を深めるなどの補助的なものなのだ。それを自分のモノにしたいという感覚を持ちたいであれば、自分から小説を書いたり、脚本を書いてみたりということをしてみないと、自分のモノだとは言えないだろう。
――俺は、自分の何かを残したいと思っているのだろうか?
 それが自分のモノだという考えであれば、その通りだ。
 世間に公開されるものでなければいけないというほど大それたものではない。自分で作るものを完成させたいだけなのだ。
 ただ、学生時代から芸術的なことは絵画以外ではまったくの苦手だった。絵画に関しては、もう一度描いてみようという気持ちになることはなかった。絵画も描き上げれば、自分のモノであることには違いないのに、絵に関しては他の芸術と違って、もう一つ足を踏み入れるには必要なものがあると感じていた。
 それはきっと、中学時代に描いた絵を褒められた経験があるからなのかも知れない。
 小説や文章などは、最初から眼中になかったので、まったくまっさらなものからであるが、絵画は一度褒められているだけに、その時に少し調子に乗って、自信を持って描いてみようと思った。
 一度褒められると、
――もっと褒めてもらいたい――
 という感情が働くことで、
――さらに上達するにはどうしたらいいか――
 ということを絶えず考えていた。
 その内容は、バランスであったり、遠近感であったりと、段階を踏まえて感じていくものだったのだ。
 それだけに、鈍っているかも知れない勘を取り戻さなければいけないという思いと、一度中学くらいまでのレベルに戻っても、そこから先が遥かに長いのは分かりきっていること、とにかくいくつもの段階があることは分かっている。大きな段階としても、まずは中学時代の段階に戻ることが不可欠であった。そこが節目であり、そこから先は新たに足を踏み入れる段階になるのだ。
 最初に小説を書いてみようと思ったのは、電車の中で一人の女子高生が、カバンの中から取り出した小説を読んでいるのを見たからだった。
 その娘のことが気になり始めたのは今から十年前の四十歳少し前くらいのことだっただろうか?
 気になる女の子がいたというのは、最初は自分の性癖でセーラー服が気になったからだったが、次第に見ているうちに、どこか懐かしさを感じさせられたからだった。
 今までに女の子を見て、懐かしいという感情が浮かんでくることはなかった。誰かを見て、
――誰か知っている人に似ているだろうか?
 と、感じながら見たことは今までにはなかった。それなのに、気になった女の子に懐かしさを感じるのは、誰か知っている人に似ていると思ったからであろう。
 しかし、それが誰なのか、ハッキリと分からない。見た記憶があるのかも知れないが、それが誰なのか分からないというのは、自分の中に意識がないからなのかも知れない。
 その女の子を、電車の中で見かけたのは一度だけではなかった。一度だけであれば、次の日には忘れていそうなものだが、彼女とは、もう一度会えるような気がしていた。それは、最初に彼女を見た日の夜、夢で同じような光景を見たからだ。
 同じような光景というのは、まったく同じではなかったからだ。シチュエーションはほとんど同じだった。何が違ったかというと、女の子の表情が違ったのだ。表情も違えば、顔も違って感じられる。
 電車の中で見かけた時は、こちらをまったく意識する素振りもなく、敏夫の方が意識しているだけだった。しかし、夢の中ではまったく逆で、彼女の方が敏夫を意識していて、敏夫は見つめられることを恥かしく感じ、まともに顔を合わせることができない。ただ、どんな表情なのか分かるのは、夢の中ならではと言える。まるで耳に目が付いているかのようだからだ。
 夢でも見るということは、それだけ意識しているからであろうが、表情が違っているというのはどういうことであろうか? 同じシチュエーションなのに表情が違っている。しかも立場が逆に感じられるということは、彼女の雰囲気から、彼女の性格などを想像した時、夢の中のような行動をするのではないかと思ったからなのかも知れない。
作品名:年齢操作 作家名:森本晃次