表裏の結界
千尋は何とか頑張って彼を力づけようと努力してみたが、やっと最近処女を失った程度の千尋では、到底彼を元気にすることはできなかった。
それから数日、譲二から連絡はなかった。今までは千尋の方から連絡を入れていたのだが、譲二の気持ちを察すると、自分からどうしても連絡することはできなかった。
だが、千尋の方も、連絡ができないことは苦痛でしかなかった。
――厄介なことを背負い込んだ彼から離れるなら今しかないのかも知れないわ――
という思いが頭をもたげた。
これが千尋が考えた、彼に対して唯一ともいえる「まともな」考え方だったのだ。
この時に自分の思いに忠実になれなかったことが千尋にとっての分岐点であり、この後の行動を大きく作用するのだった。
「頼む、千尋。何とかしてくれ」
と言って泣きついてきたのは、話を聞いてから一週間が経ってからのことだった。
ただ、その時はすでに譲二の計画はできていて、言葉巧みに千尋をこちらの手の内に取り込む段階に来ていた。
その点では、譲二は慣れたものだった。
最初から女性を自分の懐に取り込み、その中で弱いところを見せることで、相手の女性としての本能を呼び起こすという作戦は、ある意味「ベタ」とも言えるだろう。
しかし、そんな作戦に引っかかる女もまだいるのであって、譲二の作戦勝ちというところであろうか。
第三章 消えた存在
譲二は、千尋に対し言葉巧みに誘い、一軒のスナックを紹介した。
「大丈夫。ここのママさんは僕の知り合いで、いろいろよくしてくれると思うし、お客さんも悪い人はいないということなので、そんなに心配することはない。ただお酒に付き合って、いろいろ話を聞いてあげればいいだけだよ」
もっと過激なところであれば、さすがに拒否して、譲二の元を去ることも考えられたが、スナックなら、水商売としてもアルバイトでしている友達もいたりするので、それほどの抵抗はなかった。
ただ、初めてのことなので、とても自信はなかった。しかも、理由が、
「彼氏の借金のため」
である。
千尋は、譲二が自分のことを彼女として認めてくれているかどうか分からないという思いをずっと抱いていたことで、
――これで、譲二の彼女になることができる――
という思いの方が強かった。
しかも、譲二は誰が見てもイケメンで、彼のことを女性は放っておかないだろう。もしこのまま自分が彼を突き放してしまったら、彼はすぐに他の女性のところに行くに違いない。
千尋は自分では気づいていなかったが、ここまで来ると、彼に対しての想いというよりも、まわりのライバルとなるであろう女性に対しての意識が強くなっていたのである。
「分かったわ。私が何とかする」
とため息交じりで千尋が言うと、
「あ、ありがとう」
と、必要以上に大げさな喜びを表現し、本当なら、まずは、
「本当に大丈夫かい?」
と相手を労ってしかるべきなのに、それをしない彼に少し疑問を抱いた。
しかし、そこで自分のことを心配する素振りを見せたとしても、それはそれでわざとなのかも知れないとも思える。
要するにどう考えても、見ようによっては、いいようにも悪いようにも取れるのだ。それを思うと、その表情を信じるしかないということなのだろう。
千尋は、彼に連れて行かれたスナックで、初めてその場所が思ったよりも狭いことに驚かされた。カウンターには十人も座ることができず、テーブル席も二つほどだ。
今までにスナックに行ったことがないわけではない。これと同じような間取りの店も実際には知っている。しかし。狭く感じたのは営業時間ではなく、まだ開店前のバタバタした時間だったからだ。部屋はそんなに明るくなく、奥でママさんが用意をしていた。
「こんにちは。女の子、連れてきました」
譲二はそう言って、奥に話かけると、奥からママさんが出てきた。
新人になる女性が来てくれたことを歓迎してくれるのかと思った千尋だったが、ママさんの冷徹とも思える視線にビックリした。
――そうか、私は彼の借金を何とかしなければいけないということで、ここで働くんだった――
ということは、本当は女の子は足りているのに、譲二の方からあっせんしたのかも知れない。それを思えば、相手にとって、
「招かざる客」
だったのかも知れない。
「相変わらず、ママさんは無表情だな」
――無表情?
千尋には、ただの無表情には思えない。明らかに冷徹な視線を浴びせている。
千尋は、反射的に譲二の顔を見た。その顔は何事もなかったかのような普通の顔をしていた。
――ああ、この人は何があっても、何もなかったかのような顔ができる人なのかも知れない――
と思った。
しかし、そう思うと、あの時の泣きついた顔は何だったんだ?
彼の今見せている表情を見てしまうと、とてもあの時のような取り乱したような不安な表情ができるはずはない。
――一体、どっちが本当の彼なんだ?
もし、今の彼が本当の彼なら、千尋は取り返しのつかないことをしたのかも知れない。
その時、一人の男性の顔が目の前をよぎった。
――和人さん――
どうして彼の顔がよぎったのかすぐには分からなかったが、すぐに否定した。今の自分を彼には到底見せられないと思ったからだ。
千尋はその日、それなりに化粧を施し、今日からでも店に出れるような恰好をしてきた。案の定、
「今日から出れるんだろうね?」
というママからの質問に対し、
「ええ、もちろんですよ」
という譲二の返事。
明らかにママの方が立場が上に見えるのに、なぜか譲二も負けていない。
千尋は何も言えずに、そこに佇んでいるだけだったが、本当に短い話が終わると、
「じゃあ、一旦引き上げるね」
と言って、千尋の手を取り、店を出た。
「ママは、全然私に何も言いませんでしたけど?」
と不安を彼にぶつけると、
「大丈夫。ママは初対面の人にはあんな感じでぶっきらぼうなだけだ。付き合っていれば、すぐに慣れる」
千尋は、彼の返事にまったく不安が払拭された気がしなかった。
二人は、一時間ほど近くの喫茶店で時間をつぶし、
「そろそろ行こうか?」
と、再度店に連れていった。
「俺は、最初の一時間ほどしか一緒にいられないけど、後は他の女の子も来るので、彼女にいろいろ聞くといいよ」
と、言っていた。
確かに、一時間もしないうちに、
「俺はこれで」
と言って席を立った譲二は、そのまま店を後にした。
三十分ほどママと二人だったが、会話があるわけではなく、ママは奥でいろいろ経理のことをしているようで、千尋は洗い物に精を出していた。
そのうちに彼が言っていた、
「もう一人の女の子」
が出勤してきた。
「あら? 新しい女の子?」
「ええ」
二人の会話はそれだけだった。
それがツーカーの中での周知の会話なのか、それとも会話をする必要のないほど冷めた関係なのか分からなかった。
「私、里穂っていうの。もちろん、本名じゃないけどね」
「初めまして、私は千春といいます」