浄化
それが三年前のことだった。
大学三年生の時で、当時付き合っている女の子がいたのだが、彼女に、
「一緒に夕日を見に行こう」
という約束をしたのに、目をやられてしまったのが、その直後だったこともあり、彼女との約束を果たすことができなかった。
まさか、それが原因ではなかったのだろうが、ちょうどその頃から克之の歯車がうまく回らなくなった。
――好きなことだったはずなのに、リズムがうまく回らなくなることに繋がるなど、想像もしていなかった――
目が見えない時期はそれほど長くはなかったが、本当にタイミングが悪かったのだろう。車に轢かれてしまうという運のなさまで露呈してしまった。
「光と影さ」
「七夕男」がそう呟いた。そう呟いたことで、克之は自分の運のなさを今さらながらに思い出していた。今ではすでにそんな悪かった時期は通り過ぎたのだが、一言言われたくらいで即座に思い出すのだから、やはり忘れられないことを覚えていた証拠だろう。
それなのに、「七夕男」は、
「忘れられないことを覚えていることが難しい」
と言った。彼がわざわざ口に出すことなのだから、何か根拠があってのことなのだろう。それも、世の中の人全体に対して言っているように見えて、実際には克之に話をしていることである。
「七夕男」に言われた、
「光と影」
という言葉、この言葉を聞いて克之は目からうろこが落ちた気がした。
――そうだ、あの時、眩しさを感じたのは、光が目を差しつける前に、少しの間、影があった。それがどうしてなのかと考えているうちに一瞬にして目に突き刺さり、今度は影だけではなく、光さえも失われたんだ――
確かに、光が差し込んだその日は、病院に行った時、
「何とも言えません」
と、重症であるかを匂わせる発言をされた。
それこそ、目の前が真っ暗になってしまった。
――僕はどうすればいいんだ?
翌日になると、
「もう、大丈夫です」
と、言われて、事なきを得たのだが、その時に受けたショックは酷いものだった。しばらくの間、光を見るのが恐ろしくなり、ずっとサングラスを掛けていた。大学の講義中も掛けていたので、教授に注意をされたが。外すのが怖かったくらいだ。実際にサングラスを外して前を見ると、目が痛くなった。ただ、それはずっとサングラスに守られていたことで、急に外すと目が痛くなるのは当然のことである。
――そんな簡単な理屈すら分からなくなっていたんだ――
と後から思えば、感じたほどだ。
克之は、リズムの悪さをすべて、
――あの時の閃光のせいだ――
元々、夕日の色も特殊なものだと思っていた。そこに何らかの偶然が重なったのか、スパークが発生したとしても、不思議のないことなのかも知れないが、誰に聞いても、
「そんな話は聞いたことはない」
と、言われてしまい、
――僕は本当に運がないんだ――
と思わざる負えないだろう。
偶然がいい方に重なれば、いいことが続くのかも知れない。夕日に写る光であっても、見える色によっては、
「幸せになれる」
というではないか。克之はその時の色を覚えていない。少なくとも、緑でなかったことは間違いない。
就職活動もなかなか順調にはいかなかった。何社受けても、面接官の表情は無表情で、さらに平気で痛烈なことを言う。面接官たる者、そこで相手の顔色を見るというのも作戦なのだろうが、精神的に参っている人間には、
「強迫観念」
以外の何物でもない。
ただ、その中で、何度か立ち直るチャンスがあったのではないかという思いがあった。それは、格子柄のようなもので、オセロゲームの盤を見ているかのようだった。
最初は、
――信号機のようなものでは?
と思っていたが、前後にだけしか進まないものではなく、前後左右に道が開けていたのではないかと思えた。
ただ、そうなると、あまりにも選択肢が広がりすぎる。間違えて、元に戻ったりするかも知れない。克之は一歩進むということは、アリジゴクの穴から這い上がるのを想像していた。一歩前に進んだとしても、油断していると、砂が崩れて、何歩も戻ってしまうのではないかという感覚が頭の中にある。
――だからこそ、油断していてはいけないんだ――
と思うようになり、選択肢が広すぎると、却ってアリジゴクの罠に嵌りこんでしまうのではないかと思うようになっていた。
――それにしても、「七夕男」って何者なのだろう?
一言でこちらの気持ちを看破しているように思える。だが、逆を言うと、彼の一言が、自分の中にある忘れられないと思っている記憶の封印を解いているのかも知れない。そう考えると、さらにこの男の末恐ろしさが身に沁みて考えられるようになっていった。
「一体、あなたはどうして、僕に一年後と言ったんですか?」
すると、男は案外と単純な答えを返して来た。
「一年後じゃないと、君に遭うことができないからさ」
単純に「あう」という言葉を考えた時、出会うという意味なのか、遭遇という意味なのかということまで考える人はまずいないだろう。「出会う」ということしか想像しないからだ。
ということは、遭遇するということは想定外のことである。だが、この男を見ていると、遭遇するということも想定内に含めるしかないと思った。
考えてみれば、一年前のあの日の出来事は、「出会った」わけではない。お互いに会いたいと思ったわけではない。「遭ってしまった」のだ。遭遇だと思えば、彼が消えたのがなぜなのかを考えれば分からなくもない。
――きっと彼は別世界の人間なんだ――
彼の存在は、この一年間、忘れたことはなかったが、それ以上に、必要以上なことを考えないようにしていた。一度、歯車が狂ってしまった人間は、
「石橋を叩いても渡らない」
ようになるものだ。
克之もそうだった。そのせいからか、
――必要以上のことは考えないようにしよう――
と思うようになった。ここが微妙に違うのだが、普通であれば、
――余計なことは考えないようにしよう――
と思うはずなのだが、克之は違った。
余計なことよりも、必要以上のことというのは、いわゆる「遊びの部分」もないことを示していた。
――ニュートラルなんてありえないんだ――
これが、克之の考え方だった。
「七夕男」としても、克之との遭遇は想定外のことだったのだろう。そのため、その時では説明ができないが、いつかは説明しないといけないと思った。
説明をしておかず、下手に誤解を受けたままでは、知られたくないことを、他の人に間違って伝わるかも知れない。それだけは避けたかった。
その説明がどうして一年後になるのかは分からないが、その一年の間に、もし克之が他の人に何か言おうとしたとすればどうだったであろうか?
「七夕男」には、想像もつかないような不思議な力を備えている。克之の考えていることなどお見通しなのかも知れない。もし、危ないと思えばすぐにでも飛んできて、克之を抹殺していたかも知れない。