浄化
――あれ? おかしいな――
目の前に見えているはずなのに、「七夕男」に近づいているという感覚がしない。
――よし、もう一度――
そう思ってさらに近づいてみた。最初は確かに近づいていた。
一歩、二歩、確実に近づいている。しかし、三歩目を過ぎてさらに前を見た時、最初に「七夕男」を見たところに舞い戻っていた。
今度は、横の位置を覚えていた。左右を真横に見て、それぞれの景色を覚えておくことで、近づいたかどうか分かるはずだからである。
一歩、二歩と、また近づいてみた。左右の位置も一歩ずつ、確実に前進していた。三歩目を踏み出した時も、一切の違和感もなく、確実に近づいている。もちろん、左右の位置も当然のごとく、近づいていた。
問題の四歩目、やはり最初の位置に戻ってしまっている。本能的に克之は左右の位置を見た。
――一体、どういうことなんだ?
左右の位置は自分が四歩目を踏み出したことを、序実に物語っていた。
ということは、自分が元の位置に戻っているわけではなく、相手が離れて行っているということになる。そんなバカなことはありえない。
なぜなら、人が遠ざかっていくだけなら、まだ分からなくもない。しかし、目の前の光景から、「七夕男」の位置はまったく変わっていない。自分の視界は決まっている。その視界に少しだけ小さくなり、まわりが広がって見えるのだ。遠近感から考えると、遠ざかってしまっていると考えるのが当然であり、自然なことなのだ。
――僕の目がおかしくなってしまったのかな?
克之は、一瞬ここに来てしまったことを後悔した。それは、自分が元に戻れない別の世界に入り込んでしまったかのような不安を覚えたからだ。そんなことはありえるはずがないのに、そこまで考えるのは、克之が普段から、考え始めると悪い方にばかり考えてしまうからだった。
まずは、この状況を自分に納得させなければいけない。しかし、考えてみれば、それができれば、不安に苛まれることもないし、後悔も消えるだろう。いきなり結論を考えてしまったことに気付くと、
――それではどうすればいいんだ?
と、これから何かを考えるとすれば、堂々巡りの発想とは切っても切り離せない感覚になってしまうことを感じた。
最初は、声を出して、相手に自分の存在を知らしめることが一番だと思った。だが、声を出そうとするのだが、どうやら、発声ができないようだ。
――ようだ――
という曖昧な感覚は、自分の耳には声が出ているのを感じているのだが、まわりにその声が響いていないのが分かったからだ。自分に聞こえるのに、まわりに響かないことが分かるというのもおかしな話だが、その場所にいると、空気の振動を感じることができない。いつの間にかさっきまであれほど強い風が吹いていたにも関わらず、まったくの無風になっていた。
――そういえば、一年前のあの日も、最初はあれだけ風が強かったのに、「七夕男」と話をしている時、完全に無風状態だったな――
その時に感じたのは、空気の「濃さ」だった。
――空気の濃さ?
そうだ、今発声ができないと感じたその時、空気の濃さを感じたような気がした。最初は空気が薄いように感じたが、実際には濃いのではないか。空気が濃いために、風がなくなってしまい、まるで水の中にいるような感覚なのかも知れない。
そう思うと、前に進んでいるようで進めないのは、空気の抵抗があるからなのかも知れないと感じた。元々この空間には、最初から何か自分で理解できない空気が漂っているのを感じていた。何が起こるか分からないといってもよかった。それでも実際に理解できないことに陥ると、何とか自分の考えられる範囲で理解しようと試みる。
無理だと感じると、そこで発想の堂々巡りが繰り返される。そこから焦りが始めるのではないかと克之は感じていた。
普通、焦りを感じると、自分の身体が思うように動かなくなる。しかも、まるで水の中にいるかのような「濃い空気」の中、克之は「七夕男」から目が離せなくなっているのだった。
だが、どこかで視線を切らないと、このまま動けなくなってしまいそうな気がした。目の前に目指す相手がいるのに、近づくことができない。いや、そんなことはどうでもいい。ここまでくれば、自分がいかにして、この状況から逃れることができるかということが問題になるのだ。
相変わらず「七夕男」はこちらに気付かない。
この場所から逃れるにはどうすればいいか? まず一刻も早くこの場から立ち去ることを考えるしかないのだが、前に進むことができなければ。後ろに下がればいいことだ。そんな簡単なことに最初から気付かなかったのは、こちらに気付かないまでも、目の前にいる「七夕男」から視線を逸らすことができなかったからだ。
努力はしてみたが、踵を返すことができなかった。何とか身体の向きを変えると、後ろを向くことができそうな気がしたのだが、後ろに見えている光景が、さっきまでとはまったく違うものになっていた。
「僕は夢を見ているのか?」
そこは、断崖絶壁の先端に立っていた。その向こうには果てしない海が広がっているはずなのに、確認することができなかった。
しかし、克之には分かっていた。それは、今朝見た夢と同じだったからである。
さっきまでは、今朝見た夢の記憶はまったくなかった。夢を見たという意識すら忘れていたほどだ。
――しかし、これだけのショッキングな映像を夢に見て、夢に見たことを忘れていなたんて、今までにはなかったのではないか?
と感じていた。
夢の内容を少しずつ思い出してきたが、それは今までに何度か見た夢だった。今日覚えていなかったというのは、今までにも見た夢だったことなので、それほどショッキングだったというイメージとしてはなかったのかも知れない。しかし、却ってそれを今ここで思い出したことが不気味だったのだ。
――忘れてしまったことへの戒めのようなものなのかも知れない――
と克之は感じ、まさか、それが一年後という今日に関係しているのだとすれば、克之の夢のことなど何も知るはずもない「七夕男」が克之と、本当はどこかで繋がっているのではないのかと思わせられた。
「何かを覚えておくにしても、忘れてしまうにしても、それなりに事情や理由があるものさ」
と言っていた人のことを思い出した。
「覚えておくことと、忘れてしまうこと、どちらが難しいんですかね?」
と聞くと、
「その時々で違うだろうが、忘れてしまうことの方が、俺は難しいと思う。覚えておくというのは、人間が自然な考えに基づいての思考なのだろうが、忘れてしまうことというのは、思考ということから考えると、逆向きの発想に思えるんだ」
「なるほど、言われてみればそうですよね」
その人と話をしている時、克之は感心して聞いた。しかし、話が終わって違うことを考え始めると、その話は頭の中からスッポリと消えていた。
しかし、不思議なことに、心の中にポッカリと穴が空いてしまったことを意識はしていたが、それがさっきまでの話だという意識はなかったのだ。ひょっとすると、その時に克之は、無意識に、
――忘れること――
を敢えて選択したのかも知れない。