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浄化

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 先ほど消えたことといい、一瞬にして目の前に現れたことといい、この男には不思議な力が備わっていることが分かった。下手に逆らうと、本当に命がない。まずは彼が何を欲しているのか、そして、何か目的があるのであれば、それを知らなければいけないと思った。
「何も、そんなに驚くことはない。といってもまあ無理なことかも知れないけどね」
 と、男は表情を変えずに話し始めた。
「あなたは、僕をどうするつもりですか?」
 順序立てて話を聞かなければいけないと思っていたのに、いきなり目の前にやってきて、無表情で、
「驚くことはない」
 などと言われたら、恐怖がじわじわと襲ってくる。自分でも震えながら汗を掻いているのが分かる。
「そんなにたくさん汗を掻いてしまっているけど、汗を掻くと気持ちいいですか?」
 この男は何をおかしなことを言うのだろう? まるで自分は汗を掻いたことがないような言い草ではないか。
「あなたは、汗を掻いたことないんですか?」
 と、驚いて聞き返すと、
「聞いているのは、こっちだ」
 と、威嚇するように答えた。確かにこの男の言うように、聞いてきたことに応えなかったのだから、相手が怒るのは仕方のないことかも知れないが、それにしても、おかしなことを聞いてきたのは、そっちの方ではないか。克之は一瞬訝しそうな表情をした。
「そんなに、俺のことが怖いか? 怖がる必要はない。俺は聞きたいことを聞いているだけだ。別に取って食ったりなんかしないから、安心すればいい」
 この男を見ていると、本当に容赦がなさそうだ。こんな男にいつまでも関わっているわけには行かない。この場を何とか無事に逃れることだけを考えなければいけない状況だった。
 しかし、次第にこの男に興味を持ち始めたのも事実だった。取って食われることは本当にないという確信があったわけではないが、無表情な中に、この男が本当に悪い男ではないという証拠が隠されているように思えてならなかった。
「汗を掻くということは、人によってそれぞれなので、何とも言えないけど、少なくとも僕は気持ち悪いという感覚以外の何物でもないよ」
 と、本音で答えた。
 すると、男の表情が少し崩れ、
「ほう、だったら、どうして汗なんか掻くんだい?」
 またおかしなことを言う人だ。
「汗は、身体が本能で掻くものじゃないのかい? 汗を掻くのを止めてしまうと、身体に熱が籠ってしまって、熱で身体がやられてしまうだろう? そんなことをしたら、人間は生きていけないじゃないか」
「そうなんだ」
 と言って、男は自分の手の平を見つめた。
「俺は汗を掻いたという記憶がほとんどない。ひょっとしたら掻いているのかも知れないが、それが君たちが掻いている汗とは違うものなのかも知れないな」
「何を言っているんだい? 君だって、僕たちと同じ人間だろう?」
「そうだな。ごめん、俺が変なことを聞いてしまったんだな。忘れてくれ」
 思わず、
「大丈夫か?」
 と、聞いてみたくなったが、それはできない。彼が何を思って克之に話しかけてきたのか分からないが、少なくとも克之から、何か情報を得ようと思ったのは間違いないことだろう。
 まずは、彼の話を、
――馬鹿げた話だ――
 として、聞かないようにしようと思った。最初から疑ってかかってしまっては、話が先に進まないからだ。
 ただ、少し彼の話し方には棘があるように感じた。上から目線であるのは明らかで、普段であれば、自分が遜るような態度を取るようにしているが、この人に対して遜る必要はないと相手の目が言っているように思え、対等に話をする気になっていた。
「本当は、聞きたいことがいろいろあるんだが、今日はこれ以上ここに留まっていられない。一年後の今日になるんだが、もし君が俺のことを覚えてくれていたら、もう一度同じ時間にここに来てほしい。俺も絶対に来るから、それでいいかい?」
「一年後とは、また気が遠くなるような話だな」
 呆れたような気になった。もし、他の人なら一年後などと言われれば、相手にする気も失せるに違いない。だが、克之はそれでもよかった。
「よし、分かった。なるべく来れるようにしよう。僕も君の話をいろいろ聞きたいからね」
「ありがとう。君はどうやら信用してもいい人のようだ」
 そう言って、男はやっと笑った。その表情がなければ、一年後などと言われれば、その時は、真剣に考えていたとしても、時が流れていくうちに気持ちも変わってくる。一年というのは、気持ちを変えるに十分な期間である。
 男のことを一日として忘れることはなかった。しかし、一年間というのは、精神的に何もなかったというには、長すぎる期間である。特に会社に入ったばかりで、仕事のことだけでも、毎日が一日として同じ日があるわけもない。急に、
――何日か前に戻ったような気がする――
 と感じることもあったが、前ばかりを見ている自分には、さほど気になることではなかった。
 ただ、この一年間というのは、あっという間に過ぎたような気がしていたが、いざ一年経ってしまうと、一年前がまるで、遠い昔のように思えてくるから不思議だ。一度通り超えてしまった過去を思い出そうとすると、実際の距離は短くとも、相当遠く感じる時もある。それは特に前ばかりしか見ていなかった時で、後ろを見るという感覚がないからだ。首だけを後ろに向けて後方を見る時、すぐそばにあるものでも、遠くに感じたりするものである。克之は今、そのことを実感していた。
 この場所に来た以前にも同じことを感じたのだが、この場所はどうも、撮影現場を感じさせる佇まいである。ずっと静かで、人が通った気配を感じさせない雰囲気に、突如現れる不可思議な行動を取る連中。それはまるで映画の一シーンのようだ。自分にここで待ち合わせようと言った男も、どこか芝居がかっていた。
――僕は担がれたんだろうか?
 と思えてくるのも無理のない話で、もしこれが映画の撮影で、柳の木に何かトリックでもあるとすれば、納得がいかないわけではない。
 だからと言って、一年前の男が、なぜ見知らぬ克之に、しかも一年後という長いのか短いのか分からないような時期を指定してここに来るように言ったのだろうか? 翌日でなくとも、一週間先でもいいではないか。克之は考えれば考えるほど、考えることに集中しないわけにはいかなかった。
 一年というのは、やはり何かを忘れるには十分な期間である。失恋がどんなに激しくとも、一年も尾を引くというのはよほどのことであり、普通に考えても長いと思っている期間を指定してきた男の心境を思い図るのは困難なことだった。
――一年に一回などというと、まるで牽牛と織姫が天の川で逢う七夕の夜のようではないか。そうだ、僕だけでもあの男のことを「七夕男」と呼ぼう――
 と思った。
 命名としては、もっとメルヘンチックな呼び名があってもよさそうだが、名前を知らないので、とりあえずそう呼ぶことにした。
「七夕男」と出会ったその場所に近づいてくると、すでに彼はやってきていた。
――まだ、二十分近くもあるのに――
 と思ったが、「七夕男」は、克之に気付いていないようだった。
 克之は「七夕男」に近づこうとして、少し歩みを早めた。
作品名:浄化 作家名:森本晃次