浄化
何度も出撃し、そのたびに、命を捨てる覚悟をする。何度も覚悟を重ねていくうちに、死に対しての感覚がマヒしてくる。自分の死に対しての感覚がマヒしてくるのだから、人の死に対して、いちいち感情を持ったりすることもなくなる。
――すべてが他人事のように思う感情が本当なのか、それとも、死を覚悟した感情が本当なのか、それぞれが共存できるものだとは思えない――
そんなことを感じながら本を読み進んでいった。
今度は、以前に読んだ時に比べて、思ったよりも時間が掛かっている。忘れてしまったことを思い出そうとするかのように、読みながら考えているのだ。そのわりに、客観的に主人公を見るわけではなく、自分が主人公になりきって読んでいることが、時間の掛かる要因となっている。
昨日の誠との話を思い出していた。話の内容をさっきまで覚えていたはずなのに、本を読み始めると、その内容が頭の中に浮かんでこない。似たような話だったと思って、本を読もうと思ったはずなのに、似ていると思ったのは、表面上のことだけで、本を読みながら、自分が主人公に置き換わってみると、その違いの大きさに、気付いていくような気がしていた。
本を、ほぼ一日掛かって読み終わると、すでに日は西に傾きかけていた、その時間になると、目の疲れとともに、普段ではここまで疲れることはないと思いながら本を閉じ、自分も目も閉じて、少し深呼吸してみた。
物覚えの悪さはどこから来たのかを、今さらのように考えていた。
――人の顔を覚えるのが、本当に苦手だったな――
ということを思い知らされた。
学生時代、覚えていなければいけない人の顔を覚えていなくて嫌な思いをした。それも好きになった人だっただけに、
――僕は好きになった人であっても、その顔を覚えていないのか――
と、自分の記憶力のなさに、屈辱感を感じたものだ。
屈辱感が敗北感に繋がり、「それから女の子を好きになっても、自分に自信がないことで、告白もできず、悶々とした気持ちだったこともあった。何とも嫌な思い出である。
その日、本を最後まで読み終わって、そのまま本を閉じればいいものを、最後のページを読み終わり、本を閉じようとしたところで、思わず手が止まった。
――どこかで見た顔だ――
最後の見開きのカバーのところに、筆者の顔写真が乗せられていた。
――前に読んだ時、確か見た記憶はあるが、その時は何も感じなかったはずなのに――
その顔には思い出があった。
確かに以前どこかで見た顔なのだが、思い出せない。しかも、ずっと昔だったような気がする。
そう思うと、ふと違和感を感じた。
――そんなに昔であるはずがない――
という思いがあったが。そこには二つの意味が隠されていた。
一つは、
――今考えているような昔の意識が残っているはずがない――
という思いと、
――見たような気がする相手の顔は、ここ数日くらいのものだったはずだ。それを覚えていないなんて――
というものだった。
前者は、自分にとっておじいさんくらいの年の人の意識が、今よみがえるはずがないというものである。七十年も前の感覚、いや、本当がこの世での感覚ではなく、誠のいた世界の感覚なのかも知れない。あちらの世界では、今が戦争の真っ最中だというではないか、ただ、科学力はまるっきり違っているというが、「生きていたい」という感情は、どの時代であっても、どの世界であっても同じであろう。彼らの世界にだって、生と死の狭間で苦しんでいる人がたくさんいるはずだ。それを思うと、殺戮と破壊は、何も残さない。彼らの言う「浄化」というものは、皆を苦しみから救ってくれるものなのだろうか? 克之は「生きていたい」と感じた相手の顔を思い浮かべた時、著者の顔が浮かんできたような気がしてきた。
後者のここ数日の意識だが、ここ数日の間で出会った人で印象に深く残っているといえば、誠だけだ。著者の顔が誠に似ていたのかと言われれば、どちらかというと似ていない。
ここ数日の感覚だというのは、錯覚かも知れないと思った。著者の顔を見ていると、
――いつも見ているようで、実際には意識したことのない顔。つまりこれほど身近な人はいない――
と、そこまで考えてくると、思いつくのはたった一人。
とは言え、一番認めたくない事実だった。なぜなら、その顔というのは、克之自身の顔だったからである。
服装も違えば髪型も違う。写真は海軍の正装である。
軍服を着たことなどあろうはずもなく、ただ、本を読んでいると、本の世界に入りこんでしまう自分を感じるのだが、あくまで部分的に感じているだけで、最後まで感じることはできない。
――あの時の誠の表情――
軍服を来た著者の表情は、無表情だ。正面をカッと見つめて、その顔には覚悟が滲みでている。きっと、何度目かの出撃の時に撮った写真なのかも知れない。
顔自体は似ていないが、表情はこの間の誠によく似ていた。
――あの人にも覚悟のようなものがあったんだ――
と、著者の写真を見て思い出した誠の顔に対して感じたことだった。
このタイミングで誠のことを思い出すというのも、自分が誠と会った時、
――この人が自分の前に現れて、話をすることの意味がどこにあるというのだろう?
と感じた疑問が、やっと今晴れた気がした。
――誠は、向こうの世界では兵士だったのかも知れない――
彼の目には確かに死ぬことを恐れない覚悟のようなものがあった。しかし、その眼は明らかに死んでいたように思う。何かを言いたくて克之のところに現れたのだろうが、あの時、彼は本当に言いたいことを、克之に話したのだろうか?
「この人なら俺の気持ちが分かってくれる」
という思いで、自分の前に現れたのだと思った克之だったが、本当にそうなのだろうか?
姉のマリの顔を思い出していた。
マリの表情には、覚悟は感じられなかったが、弟が何か覚悟をしているという意識はあったのかも知れない。
「弟さんは死にました」
と、もしマリに告げたとしても、彼女は泣き崩れるようなことはなく、まるで銃後で戦死した軍人の奥さんのように、毅然とした態度を取り続けるのではないだろうか。克之の頭の中には、毅然とした態度を取る女性が、一人になって泣き崩れる姿が目に浮かび、その時に、
――男の覚悟って、一体何なんだ――
と感じるであろうと思った。
「筆者のこの顔は、僕なんだ」
克之は、普段は見ることのない鏡に向かって、語り掛けた。自分に自覚はないのに、鏡の中の自分は、無表情で、何らかの覚悟を秘めた顔をしていたのだ……。
第四章
誠は、克之と遭ってしまったことを後悔していた。自分から現れたのだから、遭ったというよりも、会ったというべきなのかも知れないが、克之のいるこの世界に、あと半年はとどまらなければいけなくなってしまった。
理由は、浄化に失敗したからだ。