浄化
「それはあるでしょう。血液の中には人間の成分が含まれている。その中には、意識や記憶だって微量ですが含まれているんですよ。デジャブという現象だって、輸血で血を貰った人が、提供者の記憶を引き継いだと言いきれないわけではない。本当に微々たるものだということと、まったく本人の意識していない内容を映し出しているということで、デジャブというのを頻繁に感じながらも、信じようとしない。これって人間のエゴのようなものなのかも知れませんね」
「意識はしていなくても、人間という誇りのようなものが存在し、自分が判断できること以外は、ありえないという考えが強く意識されているんだろうね」
「正直、今私が考えているのは、あなたの中に複数の人格が宿っている気がするんだ。今話をしているあなたと、中に隠れているあなた。普段は、それが時々入れ替わっている状態。私の話を聞いて、反発しているあなたは、本当のあなたの人格ではないと思っているんだ」
「僕が二重人格だとでも言いたいのかい?」
「二重人格という、こっちの世界での定義とは少し違っている。ただ、同じところは、一つの身体には、表に出ている性格が一つしかないということだね」
誠の話は、次第に今の克之の考えを凌駕しているようだった。まったく信じられないと思っていた話が次第に頭の中に浸透し始めていた。それは洗脳という言葉を彷彿させるもので、人からマインドコントロールを受けている人間が、次第に人数が増えていくと、どれほどの力になるかということを、思い知らされるような気がしてきた。
ただ、誠がいうように、確かに自分の中にもう一つの人格が隠れていることには気付いていた。もう一つの人格が表に出てきた時、今考えている人格の存在を知っているかどうか分からないが、その性格とはどんなものなのだろう。まったくの正反対だとでもいうのだろうか。
「人は誰でも一つや二つ、何かを隠しているものさ。隠しているという言葉は適切ではないかも知れないが、それは相手に対していうことで、本人が隠しているという意識がない場合、隠しているものに対しての自覚がないことがほとんどだと思うよ」
という話を大学時代の友達から聞いたことがあった。
その時は、二重人格の話だと思っていたが、今考えてみると、誠の話に近いことなのかも知れない。誠は、自分の中にもう一つの人格が隠れているとは思っているが、それがどんなものなのか分かっていない。
なぜなら、今の人格が表に出ている時、もう一つの人格はじっと黙って眠っている。
「まるでジキル博士とハイド氏のようじゃないか」
というと、
「そうだね、ほとんどの場合は、もう一つの人格を分かっていないことが多い。だから、この世で生きていけるのさ。もし、他に世界が広がっているとすれば。今の性格だけで生き残っていけるかどうか、それを考えると、怖い気がするな」
その友達は、別世界の存在を示唆していた。
「一年前私に、あなたたちの世界のことを教えてくれた人が、この間、私の目の前から消えてしまったんですが、あの人は、どうなったんですか?」
克之は、人物を確定まではしていないが、一年前というキーワードは出しておいた。確証というハッキリとしたものがあるわけではないが、その男が誠に関わっていような気がしたからだ。すると、誠は少し考えてから、
「彼は死んだわけではないです。その状況を見ていないのでハッキリとは言えないけど、この世界から向こうの世界に戻る時の様子に似ているようだ」
「あの人の浄化は終わったのだろうか?」
「その人は、きっと浄化はしないと思います。向こうの世界でも、浄化に関しては、賛否両論あるんですよ。こちらの世界でも思想の違いってあるでしょう? ただ、それが過激になると、人は疑心暗鬼にかかってしまう。一人が疑心暗鬼にかかってしまうと伝染するもののようで、誰か一人の考えが分からないと、一つの集団のバランスが崩れてしまう。次第にまわりに伝染してくると、大きなバランスを保つことはできない。世の中の安定を支えているのは、バランスなんだと思うんですよ。バランスが崩れると、それがアリの穴になって、次第に大きな山を崩してしまう」
「今までそこにあったものが、なくなっていることがあったりすると、バランスが崩れたんだって思うことがありますよ」
「それも、一つの見方ですね。我々の世界では、今までほとんど闘争らしいものってなかったんですよ。だから、いちどタガが外れると、あとは果てしない疑心暗鬼に繋がってしまう。しかも、科学はこちらの世界に比べて飛躍的に発達した。闘争がないのは、兵器製造技術によって世界の破滅を政治家や軍部が感じていたからさ。こちらの世界でも同じでしょう?」
「そうですね。一触即発でありながら、核兵器による平和の均衡という冷たい時代が続いていましたね」
「こっちの世界では、そこまでは至っていない。それは、今まで幾たびかの戦争を繰り返しての教訓からでしょうね。歴史を正しく認識すれば分かってくることもあると思います。だが、向こうの世界はそうはいかない。最初から冷たい均衡だけが支えだった。実際に戦争になった場合のノウハウは一切ないんですよ。一人でもバランスを崩す人が現れて、それが大きな影響をまわりに与えてしまったら……。それが、我々の世界の現実なんですよ」
克之は、黙って聞いているしかなかった。しかし、話さなければいけないと思っていることは頭の中にたくさんあった。
「バランスもそうなんでしょうけど、戦争というものは、始めるよりも、終わらせることの方が数倍難しいと言います」
「まさしくその通りなんですよ。始めるまでには、何かの大義名分というものがあれば、それで足りる、でも終わらせるには、始める時から終わらせることを頭に入れておかないと、ただでさえ状況は、最初に考えていたことと同じように推移するとは限らない。まず間違いなく、想定外のことが起こるもので、そうなると、状況に応じた終わらせ方を、絶えず模索しておかないといけない。それを全体で考えるのではなく、個人個人の中で自覚していないといけないということに、我々は今になって気が付いた。それがバランスによる均衡なんですよ」
「あなたの世界は、今どうなっていますか?」
「無政府状態の無秩序、治安なんてまったくなくて、殺戮と破壊の限りを尽くしています」
「まるで小説や漫画の世界のようだ」
「こちらの世界を僕たちも結構研究しましたが、向こうの世界を見てきたような小説を書いている人がいたんですよ。その人も、あなたのように、我々の世界の人間と接触して、話を聞いたんでしょうね。小説家のところに現れたのは偶然ではなく、この人ならきっと我々の世界のことを描いてくれるという思いがあったのかも知れない」
「とうことは、あなたやこの間目の前から消滅した人が私の前に現れたというのは、何か根拠があるということですか?」
「根拠はあるが、それはあなた本人に思い出してもらうのが一番だと思っています。今は私の口からは言えません」
克之は、そう言われてもまだピンとは来なかったが、この人とは話が合うという実感はあった。彼は続けた。