浄化
それは、「もう一人の自分」が出てくる夢だった。夢を見ている自分は主役でありながら、実際には客観的な目で夢を見ている。だから、まるで映画を見ているような、どこか他人事のようなところがあるから、少々の怖い夢でも、本当に恐ろしいと感じることはなかった。
しかし、もう一人自分が出てくると話は変わってくる。その「もう一人の自分」は、夢に出てくる主人公である自分にも、客観的な感覚で夢を見ている自分にも、その男の存在は、完全に寝耳に水だからである。
――自分であって自分ではない男――
顔は自分だ。しかし、本当に自分があんな表情をするなど信じられないと思うほど、完全に違う人間として登場するのだ。
これほど怖い夢はない。子供の頃は、さすがに表情の豊かさを知っているわけではないので、そこまで本当の恐怖を感じるほどではなかったが、そこから成長した自分を思い浮かべていたのかも知れない。
――もう一人の自分の恐ろしさは、成長してみないと分からない――
と考えていた。
そして、実際に大学生になって、久しぶりに自分が出てくる夢を見た時、それまで掻いたことのない寝汗で濡れていたのだった。
寝汗の量は、半端ではなかった。シャツの上からパジャマを着て寝るのだが、シャツ、パジャマともに、絞れば洗面器に軽く水を溜めることができるほどで、手に持ってみると、ずっしりと重かった。
敷布団はそのまま使うことができず、風呂場から、大きなバスタオルを持ってきて、背中に敷き、そのまま上半身何も着らずに朝まで眠らなければならない羽目になった。そのせいか、翌日には風邪を引いてしまい、二、三日体調が悪かったのを覚えている。
「あの時は、踏んだり蹴ったりだったな」
と、苦笑いをせずにはいられない。
克之は、どうしてそんなに夢の中に出てくるもう一人の自分が怖いのか、冷静に考えてみた。最初は分からなかったが、考えてみれば当然のことだ。
――目を合わせてしまったんだ――
というのが、本音だった。
――あんな恐ろしい目は初めてみた。ひょっとすると、僕が他の人に見せているのは、本当はあの顔なのかも知れない――
と感じた。
克之は、この頃一番分からないのが自分だということを自覚していた。大学生になってから、大学の放送部にインタビューを受けたことがあり、その声が大学内で放送されたことがあったが、その時に感じたのが、
「これ、僕の声なのか?」
と、思わず声に出して言ってしまったことだった。
「そうだよ、自分じゃ分からないものだろう?」
「ああ、確かにその通りだな」
と言ってみたが、自分で感じている声は喉にビブラートが掛かっているのだが、テープで聞く声は、鼻にかかったような声になっている。明らかに違う人の声を聞いているようだ。
夢の中に出てくるもう一人の自分、それは表情もなく、血の気の引いた顔は、オカルト映画に出てくるゾンビのようではないか、最初は、
――ゾンビのような顔――
にビックリさせられたが、次第に自分の顔を意識し始めると、本当の恐怖は、自分の顔を酷似していることから来るのだということに気付くと、背筋に寒気を感じた。
克之は、それほど自分が臆病ではないと思っていた。実際に七夕男の存在を恐怖に感じないなど、他の人ではありえないことではないだろうか、
七夕男の存在を怖いとは感じないのに、夢の中の自分や、今目の前にいる男の存在を怖いと思うのはどういうことだろう? やはり、実際に会話をした人間であれば、どこかに気持ちが通じ合えるものがあるというのだろうか? 克之が怖くても目の前の男に近づいているのは、
――話をしてみたい――
という意識が強いからに違いない。
だが、目の前の男の血色の悪さに恐怖心を抱いている間、本当に会話などできるのだろうか? 相手も当然、自分が相手に恐怖を感じていることくらい分かりそうなものだ。訝しいと思うのではないだろうか?
いろいろなことを考えていると、目の前の男の顔に、気のせいか血色が戻ってきているように思えた。距離が離れているにも関わらず、男の息遣いも感じられる。
――明らかにこの男は生きているんだ――
表情は相変わらずの無表情だが、男の顔から凍り付いているものが氷解していくのを感じることができる。
克之は、後数歩で橋を渡りきれると思った時、今度は、前に進んでいるはずなのに、思ったよりももたもたしていることに気が付いた。
――この感覚、以前にもあったような――
あの時は、近づきたくないという思いが嵩じて、近づけないものだと思っていたが、
――実際には逆ではないのだろうか?
と感じるようになっていた。
一年前のことは、詳しくは覚えていない。ピンポイントでの記憶はあっても、それが時系列として結びつくわけではなかった。時系列で結びつかないと、記憶として成立しないのではないかと思っている克之は、前に進む時に障害を感じるのは、本当は近づきたいという意識になったためではないかと思うと、それまでの疑問も少しずつ繋がってくる。それでも、一年前の記憶と、この間の七夕男との再会には克之にとっての記憶の糸を一本につなげるには、まだまだ不十分に感じられた。どうしても、そこには越えられない何かがあるのではないかと、克之は感じた。
何とか橋を渡りきった克之は、男に話し掛けた。
「あの、私のことを覚えていますか?」
男は、訝しげに克之を見て、
「いいえ、覚えていませんが」
と答えた。
「篠原誠さんですよね?」
と聞くと、さらに男は訝しそうに、
「ええ、そうですが、どこかでお会いしましたか?」
「昨年、やはりこの場所で」
と答えると、誠は一息溜息をついた。
普段なら、こんな態度を取られると、さすがに克之もイラつくのだが、今目の前にいる誠には、不思議と怒りはこみ上げてこない。
「ここで私は何をしていましたか?」
「あなたは、謎の男たちから追いかけられていました。黒ずくめのサングラスをした、怪しげな男たちです。必死で逃げていましたが、柳の木を通りすぎると、あなたの姿は急に見えなくなり、私はその場で少し待っていると、あなたは五分後にここに現れたんですよ」
頭を垂れて、誠は聞いていたが、
「そうですか、見てしまいましたか。でも、あなたは、どうして私の名前までご存じなんですか? ひょっとして、あなたが、新田克之さん?」
「ええ、そうです。あなたが、お姉さんのマリさんに私のことを話したとかで、あなたが行方不明になったことで、あなたの消息を訪ねようと私のところにやってきました」
「そうですか、姉が来たんですね……」
「でも、あなたはどうして私のことをお姉さんに話せたのに、私を見て、新田克之だと分からなかったんですか?」
「実は、私も後になってあなたの存在を聞かされたんです。私のことを見ていた人がいたとね。でも、その人にはまだ話はできないので、少し話ができるようになるまで待ってほしいと言われました。同じように私の姉にも話をしてくれたんでしょうね」
「その話をしたと言う人は?」
「あなたもご存じのはずですよ。あれから一年経っているので、あなたは、彼から話は聞いたはずです」
七夕男のことを言っているのだろう。