浄化
今、目を瞑ると思い浮かんでくる顔、それは七夕男ではない。一年前に同じように逃げていた男の顔だった。遠くから見ただけでハッキリとは覚えていないが、目を瞑って想像すれば、浮かんでくるのだ。
それが今では誠だったと思っている。あれから誠は一年間何事もなく過ごしていた。いや、姉との間に何かがあったのだろうが、ここでのことは意識することなく過ごしてきたはずだ。
そう思って、目を瞑ってしばらく誠のことを思い浮かべていた。
――一体、どんな男なんだろう?
マリとの会話では一方的すぎて判断できない。しかも、マリには客観的に見ているところがあるように見えるが、明らかな偏見も含まれている。ハッキリ言って当てになるものではない。
さっきまでは、マリの目から誠を見る気持ちにしかならなかった。それだけ目の前にいたマリの存在が大きかったのだ。しかし、今はマリがいるわけではないし、奇しくも誠だと思える人のいた場所に来てしまったこともあり、想像するには絶好ではないだろうか。
ただ、一年という歳月は、思い起すには時間が掛かる。その時に思いを集中させて、思い出そうとするには、長いのではないかと思えた。
確かに、
「あっという間だった」
という感覚は存在する。しかし、それは過ぎ去ってしまったものを一つ一つ顧みて、ふと気が付いた時に感じる時に限られている。そうではなく、遡るという意識があるわけでもなく、ピンポイントで意識させようとすると、そう簡単に思い浮かんでくるものではない。時間とは、それほど薄いものではないということを、今、克之は感じているのだった。
しばらくして克之は目を開けてみた。
じっと目を瞑っていて目を開けると、まるで霧に包まれたような気がすることがある。それは、目を瞑った時に、上下の瞼が涙腺を刺激するのか、それとも目を瞑った時に潤んでいる瞳から、潤みが溢れ出そうとするからなのか、潤みを帯びた目は、すぐには前を的確に捉えることはできない。
それは目を覚ました時、目を開けようとしている時の感覚だろう。目を開けようとしてなかなか開かないのは、夢から現実に引き戻されるのを、無意識に抵抗しているからだと思っていたが、もっと実際的に身体が反応している自然の摂理に左右されているのかも知れない。
そう思うと、
――今見えているのは、幻ではないか――
と、感じるのも無理のないことだ。
実際その時克之は、目の前のことを幻だと思った。それは視界がしっかりしてきて、もはや錯覚だという言い訳は利かないところまで来ているのにである。
目の前にいたのは、今まで想像していた一年前に目の前に現れたあの男、誠だと思っている青年が、柳の木の下にいて、こちらを見ている。
ただ、見ていると言っても、誠は克之を意識しているわけではない。どこを見ているのか、焦点が合っていないかのようにも思えるが、こちらには他に誰もいない。しかも、ボーっとして自分を見ている男性を不審には思わないのだろうか? 自分なら意識しないわけには行かないと思えた。
ということは、誠と思しき男は、克之の存在に気が付いていないということになる。それよりも、克之が目を瞑っていた時間は、しばらくという曖昧な時間だったが、視界に入らないところから現れて、柳の木の下からこちらを見つめているシチュエーションに陥るまで気がつかなかったというのも、不思議な気がした。
――一体、どこから現れたのだろう? まさか、最初からそこにいたのに、僕が気付かなかっただけということもないだろうに――
と、頭を傾げ、気持ち的には訝しい感覚になっていた。
克之がいるその場所のすぐ近くに、柳の木が植わっている向こう岸に抜けることのできる橋が架かっていた。克之は、柳の下にいる男を目で追いながら、橋を渡って向こう岸に抜けることを考えた。
目で追っていたのは、消えてしまった七夕男を思い出してしまったからだ。七夕男は目の前にいて消滅してしまった。
あの時、七夕男は、消滅することを自分で分かっていたような気がする。身体が小刻みに震えていた。それも恐怖から来る震えではなかったように思う。
――自分が消滅することを、この男は分かっていたのではないか――
と感じたその思いは今でも変わらない。
なぜ七夕男が震えていたのか分からない。消滅したわけではなく、自分の世界に戻っていったと思う方が自然だった。それならば、最初から分かっていたことも納得がいく。震えていたのは、時空や空間を飛び越えるために避けては通れない道の一つなのかも知れない。
誠だと思しき男は、遠くから見ているので、雰囲気は分からないが、この男も時空を飛び越えることができるのではないかと思う。どれほどの力なのか分からないが、少なくとも一年前に、目の前で五分を飛び越えたではないか。あれは幻や錯覚ではなかったような気がする。
――この男と話をしてみたい――
という思いは、最初からあったわけではない。最初に見たのは、いきなり数人に追われていて、しかも逃げきれないと思ったところ、突然消えて、五分後に何事もなかったかのように目の前に現れた。こんな不気味な男とは、なるべくなら関わりたくないと思うのは克之に限ったことではないだろう。
ただ、気になる存在であり、頭の中から消えなかったのは事実で、しかも、そこに克之を訪ねてマリが現れた。これはただの偶然で片づけてもいいのだろうか?
克之が橋を渡りきるまで、その男は身動き一つしなかった。視線があらぬ方向を向いている。まるで人間の剥製のように見える。
――そういえば、血の気が通っている気配がしないぞ――
前にこの男を見た時も、どこか血の気が薄い、まるで病気なのではないかと思ったほどだったが、改めて今日見ると、血の気どころか、人形のようにしか見えないのは実に不思議だった。
さっきまでは橋の上を普通に歩けているつもりだったが、男の様子に違和感を覚えた時、歩が進んでいないのに気が付いた、
――僕はこの男を恐れているのか?
不思議な感覚だった。七夕男には最初恐怖を感じたが、話をしてから、恐怖は感じなくなった。この男とも話をすることができれば、七夕男のように恐怖を感じなくなりそうな気がして、本当なら関わりたくないと思っていたはずなのに、近づいていくことを選択したのだ。
ただ、最初にこの男に恐怖心を抱いた原因が何だったのか、その時にも分からなかった。それなのに、今回は分かっている。それは、その男がまったく違う世界の人間だという思いだけなら、それほど恐怖は続かなかっただろう。しかし、姉と名乗る女性が現れて、無理やりにでも、自分と関係づけられてしまったのだ。まったく関係のない人物ではなくなった瞬間に、再び恐怖に襲われたのも、無理のないことだった。
――その恐怖を払拭しようと思っていたはずなのに――
男に近づいたため、血の気のなさから、さらに人形のような表情に恐怖を感じずにはいられない。
克之は今までに見た一番怖い夢が何であったのか、分かっているつもりである。子供の頃には何度か見た経験があるが、最近ではほとんどない。