浄化
それはマリを自分が意識しているからだということに気が付いたからだ。最初は気付かなかったが、マリが誠に対して他人事のように思っているということを感じた時からだった。
克之は最近、自分のことを見つめている視線を思い出した。マリの話によれば、誠から克之の話を聞いた時よりも以前から視線を感じていた。
ということは、あの視線はマリであるはずはない。
それなのに克之は、
――あの視線は、ずっと同じものだった――
と、今でも信じて疑わない。
しかし、あの視線にはマリに感じているどこか冷静で、いや冷たさまでも秘められていたのを思い出した。
――やはりマリではなかったのだろうか?
マリに聞いてみることはできない。それだけはどうしてもできない気がした。違うと言われるのが怖いのか、それともマリだったとした時に、自分がどう対応すればいいのかが思い浮かばないからなのか。後者だとすれば、マリが誠に感じている気持ちが分かってくるような気がしたが、正直、マリの誠に対しての気持ちを知りたいとは思わない。冷え切った感情を、今の自分に耐えられるかと思うと、疑問だったからである。
克之は、誠の気持ちを考えると、確かに姉のことを女として見てはいたが、それは一時期のことであって、今ではそんなことはないのではないかと思っている。そう思ってしまうと、マリが考えていることは思い込みであり、自意識過剰ではないかと思えてくる。
マリのような女性に自意識過剰な人が多いのは分かる気がする。何とか気丈でいなければ弟との関係も、ひょっとすると、男女の関係に入っていたかも知れないからである。もしそうなれば、どちらかがのめりこんでしまって、気が付いた時には相手の方が抜けれなくなり、いずれは二人だけの問題だけではなく、数人を巻き込んだ愛憎絵図を描く形になりそうな予感がしたのだ。
克之は、誠の目から見たマリを見ていたが、次第に、誠の失踪について考えるようになっていた。そのためには、一旦意識の中から、マリの存在を消さないと想像することは不可能な気がした。
「今の私が弟さんについて分かっていることはすべてお話しました。もし、何か分かりましたらご連絡しますので、それでよろしいでしょうか?」
自分でもゾッとするほど冷静で、事務的に話ができた。
「いいですよ。それでお願いします」
と、言ってその日は別れた。
マリの後ろ姿を見つめていたが、マリは一切振り返ることもなく、図ったような歩幅で歩いていた。ただ、後ろ姿から伺えたのは、マリがずっと何かを考えているということである。
――一体何を考えているんだろう?
と思ったが、マリという女性の後ろ姿を見ていると、後ろ姿の方が、正直に気持ちを表しているように見えた。
「もっとその後ろ姿を見ていたい」
と呟いたが、その言葉は吹いてきた風に吹かれて、破壊されたように、四方八方に散っていった……。
第三章
一人になって風の強さを感じると、七夕男との一年後を思い出した。
あの日の鈍色の空に、重苦しい空気が風となって押し出されているように感じたその時、風の違いを感じていた。
――あの日とは、何か明らかに違う――
それは、風に匂いを感じたからだ。
まるで石をかじった時のような鼻につく臭い。それは今までに何度も感じた臭いだった。嫌いな匂いというわけではないが、別に好きなわけではない。ただ、この匂いを感じた時に、
――もうすぐ、雨が降ってくる――
というのが分かることだ。
雨は嫌いだった。濡れるのも嫌だし、濡れないようにしようと思えば、行動範囲が限りなく制限されてしまう。何よりも湿気というのは、克之の体調に直接影響してくる。
「僕は湿気が多いと、肩が痛くなって、頭痛がしてくるんだ」
「何を年寄りのようなことを言うんだよ」
「年を取るから肩が痛むというわけではない。これは病院に行って聞いてきたんだが、若い人にだってある症状らしいぞ」
「そういえば、雨が降ると、休講にする教授もいたが、まんざらでもないということか?」
「あっ、そうか」
今まで雨の日に決まって休講にする教授がいたのを、これ幸いということで、深く理由を突き詰めたことはなかったが、それならば納得がいく。教授も年齢的にはまだ四十くらいだろうか。まだまだ老け込む年というわけではない。
雨が降るから体調が悪くなるということは、逆も真なりで、
「体調が悪くなると、雨が降るということも分かるんだ。ちょっとした天気予報よりも当たるかも知れないぞ」
「そういえば、俺の知っている人も、雨が近づくと、体調が悪くなると言っていた人がいたな。その人は、交通事故に遭ってからそんな風になったらしく、どうやら、後ろから追突されたらしい。その時はむち打ちになったらしいんだけど、治ってからも、雨が降るのが分かるようになったって言ってたっけ」
「そういう話なら、僕も結構聞いたことがある。思ったよりそういう人は多いのかも知れないな」
そんな会話を大学時代にしたことがあった。克之が湿気に敏感だったピークはちょうどその時だった。今はそこまで酷くはないが、雨が降る時は分かるのだった。
「今日は、雨が降るかどうか、微妙なところだな」
マリの背中を見送って、店を出た克之は、空を見上げながらそう感じた。
空を意識しながら歩いていたからだろうか、気が付けば、この間七夕男と遭った場所に来ていた。
川を挟んだ向こう側の柳の木の枝は揺れていた。ただ、湿気を感じているせいか、心なしかゆっくりと動いている。それは、スローモーションのように見えて、それは時間がゆっくりと流れているからなのか、それとも普通のスピードで進行した後に、目にも見えないスピードで、一瞬前に戻ってしまったことに気が付かないだけなのか、どっちなのだろうかと考えていた。
その思いは、七夕男と別れてから、意識の中から消えていたはずだった。それなのに今さら思い出したのか。
誠のことを意識していたからなのか、それとも、この場所には、それを意識させる何かが存在しているからなのか、ハッキリとは分からないが、そのどちらも理由としては、中途半端な気もするが、十分にも思える。
――中途半端?
さっき、マリが言っていた言葉を思い出した。
――中途半端という言葉、何とも曖昧で、それだけにどうとでも取れる言葉に思えてならない――
と、克之は感じていた。
柳の木の揺れ方は、最初、一本の柳の木を意識していたので分からなかったが、一定間隔に刻まれた柳の木に合わせて、揺れていくのを感じた。つまりは、一本の風に煽られるように、時間差がそこには生じているのだ。
――そんなに一本の風に力があるのだろうか?
普通なら感じることのできない力強さだが、この場所であれば、ありえないこともない気がしてた。
――少々のことがあっても驚かない――
その気持ちは、ここに来て思い知らされた。
一年前、ここで不思議な光景を目撃し、一年間、そのことを忘れずにいながら、想像力を逞しくしていった。それを思うと、
――一年間は長かったのではなく、短かったのだ――
と思えてならない。