浄化
今まで姉として見ていた相手を、ウザいというだけの感情で、すぐに女として見ることができるだろうか? 見ることができるようになったとしても、今度は、自分の中の男としての部分が、マリとの今まで保ってきた距離に、果たして我慢することができるというのだろうか? 克之は自分に女兄弟がいないので何とも言えないが、自分の理性をいずれ抑えられなくなるのではないかと思うようになった。
――まさか?
今、マリが語ったことが表面上の事実だとすると、誠という人間を知らないだけに、想像を膨らませることができる。
その中で克之の頭の中でピンときたことは、それまでマリを中心に考えていたので、気付かなかったことだった。
誠という男が殻に閉じこもりやすく、まわりを気にするタイプではないとすれば、いなくなった理由に、マリへの想いが隠されているのではないかと思った。
マリへの女としての気持ちを抑えることができなくなりそうだと思った誠は、マリの前から姿を消すことで、自分の気持ちを整理しようと考えたのだろう。
「俺、殺されるところだったんだ」
というような話をしたというのも、本当にそうだったのか疑わしい。
克之も、マリの話を聞いて、あまりにも似たような記憶が頭の中にあったことで、その時の男を誠だと勝手に思いこんだのだ。誠という男をまったく知らないくせに、想像などありえるはずもない。そんな単純なことを忘れてしまっていたのは、ここ最近、いや、正確には一年前のあの日からであるが、ずっと続いているこの一年間の記憶は、明らかに普段の克之とは少し違っていた。今から思い返すと、
――本当に誠だったと言いきれるわけではない――
と思えてきた。
自分が誠になったつもりで途中から話を聞いていたのも事実だし、そのうちに、誠という青年は、克之とは明らかに違っているところがあるということにも気が付いてきた。しかし、どこが違うのかと言われると、ハッキリと想像できるものではない。なぜなら、誠という青年を知らないからだ。
――誠という青年は、本当に存在したのだろうか?
そこまで想像が飛躍してしまった。マリの話をまるで信用していないような発想はしてはいけないと思いながら、自分が誠の気持ちになろうとすると、どうして越えられないものを感じた。それは結界のように力があり、さらに重たいものに感じられた。
――では、そんな結界は誰が作るんだ?
と言われると、目の前にいるマリしかいないではないか。
マリが、まだ何かを隠していると感じたのもそのあたりからで、
――マリを全面的に信用してはいけない――
と思うようにもなっていた。
マリは言ったではないか、
「中途半端では嫌だ」
と……。
中途半端というのはどういうことなのだろう? 確かにハッキリしないのは気持ちの悪いことだ。しかし、姉というのは、いつまでも弟の安否を気遣うものなのではないだろうか?
親子の間では、行方不明になってしまった子供がいつ帰ってきてもいいように、部屋をそのままにしておいたり、どんなに細かいことであっても、最後まで生存を信じて疑わないものだという話を聞く。実際に克之は自分に子供がいるわけではないし、両親も健在なので、そんなことを考えたことはないが、同じような立場に追い込まれるとどうなるか、人の話になれる自信は、正直に言ってない。それでもマリの様子を見ていると、それ以前の問題ではないかと思わせる。
「生きているのか、死んでいるのかハッキリしてよ。このままでは私は落ち着かないわ」
と、明らかに行方不明になった弟に対して怒りを覚えている。
その証拠にマリを見ていて、焦りのようなものは感じない。それどころか、なるべく自分の気持ちを相手に悟られないようにしたいという気持ちが前面に出ている。だからこそ余計にマリの考えていることがよく分かる、
表情を見ていると、まるで自分が被害者で、
「どうして、こんなに気を揉まなければいけないの」
と言いたげで、誠についての話を聞いていると、どこか他人事のようだ。
二人の生い立ちの話など、
――義理であっても、弟だろうに――
と、感じるほどのこともあり、ひょっとすると、マリに対して露骨に嫌な表情をしたように思う。
しかし、マリはそんなことに気付く様子もなく、淡々と話し始める。とにかく自分が落ち着きたい一心なのだろう。
誠がいなくなって相当時間が経つというのに、今頃になっても克之を訪ねてきた時点で、まさに他人事なのだ。
次第に誠という男が可愛そうになってきた。
――彼は姉と一緒にいる時、どんな気持ちだったのだろう?
克之は、誠がマリを女として意識していたのではないかと思う。そのことをマリも分かっている。
克之がそう感じたのは、マリが弟がいなくなってしばらくは弟の夢を見ていたと言ったからだ。最初はマリの方が、やはり弟の安否を気にしていたからだと思ったのだが、途中から、マリの様子がおかしいのを感じてから、夢に見るほど気にしているとは思えないと感じた。
そこで思ったのが、心配していたから意識したわけではなく、いなくなったことが自分の中に何か後ろめたさを感じたことで、それが気になって夢に見たということだった。しかし、いくら弟を他人事だと思っていたとしても、そこまで後ろめたさを感じることもないはずだ。きっと他に何か気になることがあると思った時、今度は誠の方の気持ちを考えてみた。
誠がもし姉のことを女として意識しているとすれば、それはもちろん、誠の一方通行の片想いということだ。しかし、それをマリがどのように対処したかである。
マリのように中途半端が嫌で、ハッキリしてしまおうとする女性は、露骨に誠を遠ざけようとするか、あるいは姉に徹して、姉の立場を利用して、弟を自分の中で拘束してしまおうと考えるのではあるまいか。克之は、根拠のようなものはないのだが、後者ではないかと思っている。
マリはどこか考えすぎるくらいのところがありそうだ。それが冷静に見せていることで、「大人の女」を感じさせるのだろう。
もっとも、誠はそんなマリを好きになったのかも知れない。そう思えば、マリとしては一石二鳥である。誠を弟として自分のいいように扱える。しかも、自分に対して女を感じることはないようにもできる。
マリのような姉に育てられた誠は、実際に見たことはないが、姉に逆らうことのできない性格になってしまっていたのだろう。そうなると、マリの手の平の上で踊らされる傀儡人形のようではないか。
そんなことを考えていると、
――血が繋がっていないことが悲劇を生んだのだろうか?
と考えてしまう。
血の繋がりがないというだけでここまでにはならないのかも知れないが、可能性としては、大きなものではなかったかと思う。
――映画やドラマのような、理想論だけでは理解できないことって、この世にはたくさんあるんだ――
と感じた。
――もし、僕が誠の立場だったら?
つい、そんな思いに至ってしまう。
それもマリや誠の気持ちに少しでも触れることができたり、想像できる範囲内のところまで来た時に、感じることだった。