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浄化

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――まわりの光を吸収しても、さらに闇を求めるものが「影」だ――
 と思っていた。
 もちろん、影は光がないと存在しない。しかし、克之の考える「影」は一旦自分の存在を光によって作らせて、その後、自立できるようになると、自分をこの世に産んでくれた恩も忘れて、「光」を食いつぶす。それが克之が感じている「七夕男」だった。
「七夕男」との約束の一年後までは、数日のことだった。克之が「光」を手に入れようとするならば、「影」を何とかしなければいけない。そういう意味でも「光」の存在を最高機密にする必要があった。
――それなのに――
 あの男は簡単に看破していた。
 確かにあの男の規格外な雰囲気は、克之のことを調べ上げていることは想像できたが、心の中までは見透かすことはできないだろうというのが、克之のささやかな抵抗でおあった。
 今まで自分の中にあった孤独の代償は、
――相手に自分の気持ちを看破させない――
 というところにあった。
 その優位性は、「七夕男」の前では通用しない。他の人にはまだ通用するかも知れないが、一度看破されてしまったことで、克之の中から自信が音を立てて崩れ始めたのだ。
 崩れた自信を取り戻すのは、最初に形成して、それを壊すに至るまでの時間よりも、さらに掛かるものだと思っている。ただ、開き直りができて、
「新しいものを作るには、一度古いものをぶっ潰して、一から作り直すしかないんだ」
 という考えを持つことができるかが大きな問題になってくる。
 主義や思想などの抽象的なものや、国家のような大きなものであれば、そこまでしないといけないかも知れないが、個人が抱えているものを、そこまで大げさに考える必要があるだろうか? と思っていたのは、開き直る必要のなかった時の話だ。「七夕男」の存在を、気になる女性の出現によって、新鮮な気持ちで新たに塗り替えることができるかがポイントになってくる。
 汗を掻いて目覚めたその日、克之は、ハッキリと夢の中で彼女の顔を見た気がした。
 確かに自分のことを気にしてくれている女性は存在する。しかし、こちらを見ている女性を探すと、それらしき女性はいない。
――気のせいだろうか?
 と思い、顔を戻すと、また視線を感じる。
 自分が見た瞬間に視線を切って、顔を戻した瞬間にまたこちらを見つめたわけではない。視線の強さに変わりはない。明らかにこちらを意識している女性は存在するのだ。
 克之は、以前にも同じような思いをしたことがあった。
 あれは、まだ小さかった頃のことだ。まだ幼稚園の頃だったかも知れない。
 最初はまったく意識していなかったのに、誰かに見られていると思った。ドキドキするというよりも気持ち悪かった。
「誰だよ。一体」
 と声に出して叫んだが、誰もがキョトンとしてこっちを見ている。
「どうしたの? 克之君」
 先生も驚いて克之に声を掛ける。
「いえ、何でもありません」
 と、言ったが、あの時の思い出がまるで昨日のことのように思い出す。
――あの時の視線とは違うはずなんだが――
 克之が今回自分を見ている視線の正体が分からないのに、相手が女性だと感じたのも不思議だった。
――女性から見つめられたこともないくせにどうして見つめているのが女性だと分かったのか?
 それがそもそも不思議だった。
 幼稚園の頃に感じた視線と同じであるとすれば、異性への意識がその時にあったことになる。それもおかしなことである。
「七夕男」の存在がなければ、
――気のせいなんだ――
 として、やり過ごしていたに違いない。
 その時に感じた視線が女の子だったのかどうか確信はないが、子供の思い込みとして、女の子だったということになる。思い込みは意外と、子供の間では信憑性があり、後で覚えていることとして、思い込みによるものが多かったりするのも偶然であろうか。
 学生の頃までは女の子から見つめられたりする経験は皆無だった。本当は見つめられているのに、子供の頃の思い込みの激しさから、見つめられていることに気付かなかったのかも知れない。
 克之にとって、学校にいる時はいつも孤独だったという印象だけが残っているのは、敢えてまわりからの影響を受けたくないという思いと、一人でいる時の方が、想像力も豊かであり、自分を客観的に見ることができるからだと考えていたからだった。
 克之のことを見つめる目だが、さすがに忘れていたと思われた、幼稚園の頃に見つめられていた目を思い出した。忘れていたことを思い出すということは、それだけ印象が深かったということと、酷似していたということになる。まったく同じものだということはありえないとしても、大別すると、同じ種別に当たることは間違いのないことである。
 克之が異性に興味を持ち始めたのは遅く、高校に入った頃だった。
 小学生時代までは、男性の方が女性に比べて、前に出ていて優位な体勢になっているように思っていたが、中学に入ると、急に女性の方が大人びて見えて、
「これは敵わない」
 と思うほどの女性も中にはいることに気が付いた。
 その女性は、小学生の頃のあどけなさがまるでウソのよう、化粧をそれほど施していないという話を後になって聞いたが、その時は、
「何てケバい化粧なんだ」
 と思った。
 明らかに最初は、化粧だと思っていた雰囲気に圧倒されたのだが、よく見ると、その中に可愛らしい素振りも見られたりした。
――どっちが本当の彼女なんだ?
 と思ったほどで、小学生の頃を知っている克之は、あどけない表情が本当の彼女であってほしいという願望から、どうしても贔屓目に見てしまう。
 だが、次に感じたのは、
「あどけなさなど見るんじゃなかった」
 ということだった。最初から高嶺の花として意識しておけば、声を掛けられなくても、
「どうせ僕なんか」
 と、高嶺の花であったら、自分に対して、声を掛けられないことへの言い訳になるのに、あどけなさなど見てしまえば、声を掛けられない理由を説明できない自分をもどかしく感じるからだ。
 しかし、本当はあどけない表情に対して、自分が臆してしまい、声を掛けられないことを自覚していながら、それを認めたくないという思いが心の奥にはあった。
「そんな気持ち、表に出せるわけないじゃないか」
 と、自分の気持ちの整理ができない理由を探そうとする。どうしても、
――まだまだ思春期だから仕方がない――
 という思いに落ち着いてしまう。
 思春期を言い訳にするのは、思春期であるがゆえの特権のようなものだが、後になって振り返った時、自分で納得ができるだろうか。
 思春期には、そんなことを考えたりしない。ちょうどその時期が与えられた時期だという意識があるからだ。与えられた時期は、どう使おうが本人の自由、これが克之の発想だった。
 だが、その発想でいる限り、自由というのが果てしない発想に繋がってしまい、整理することができない。
「実は自由にしていいということほど、難しいことはない」
 この言葉は、小学生の時に先生から聞いたものだ。
「夏休みの自由研究」
 この場合の「自由」というのはまさしくその通りだ。
作品名:浄化 作家名:森本晃次