浄化
この時克之は、「七夕男」と正対し、一番訝しい表情になったのではないだろうか? 精神的には敵対する表情になったことだろう。それまでは、信じられない話の連続で、話を聞いているだけで感覚がマヒしてきて、ほとんどが他人事のように聞いていたにも関わらず、いきなり他人の家に土足で入り込むような態度を取られてしまったのだから、嫌な気持ちになって当然だ。
露骨に嫌な顔になったであろう克之に対して、「七夕男」の表情には、笑顔さえ見られる。その笑顔には余裕の色が感じられ、正直、憎らしかった。こちらは感覚をマヒさせられたり、土足で侵入されたりと、屈辱的な状況であるのに、相手はこちらの心境をすべて分かった上で、相手の気持ちを持て遊んでいるようにしか思えなかったからだ。
――僕のこの一年は何だったんだろう?
もちろん、「七夕男」に遭うためだけに一年を過ごしていたわけではないが、経ってしまうと、過去の一年は、「七夕男」に対しての気持ちだけだったように思えてならない。
今目の前にこの男が鎮座しているからそう思うだけであって、この男が目の前から消えれば、普段の生活に戻ることには違いないが、完全に忘れることができなければ、また我に返って過去を振り返った時、そこにあるのは「七夕男」に対しての思いだけだったなどと思うと、洒落になっていないに違いない。
「七夕男」は、克之にとって、マヒしていた感覚を活性化させるに十分な存在だと思っていたが、それだけにとどまらないようだ。
「ところで、あなたは僕に一体何をお望みなのですか?」
「七夕男」に聞きたかった一番の質問がこれだったというのも、今考えていることを照らし合わせると自然と理解できるものであった。
「七夕男」は、それについて、答えをはぐらかしている。その上で、プライバシーに侵入し、克之に屈辱的な感覚を植え付けようとしている。はぐらかす中で、あわやくば、忘れさせようという魂胆なのかも知れない。
「申し訳ないが、君のことを調べた中で、今まで女性に対して感情を持ったということがなかったことはリサーチ済みなんだ。そんな中、君に対してずっと意識している女性のことを君が意識し始めたのも分かっている」
いくら今までの克之の過去をリサーチしたとしても、精神的な内部まで分かるものだろうか。そのことについて考えられることは二つある。一つは彼らの化学力は、プロファイリングだけで、人の気持ちをかなり高い確率で分析できる能力を持っているということ。そしてもう一つは、過去に行けるのであれば、未来にも行けるはずなので、彼らは前もって克之の将来を見てきたことから、忠告をしているのではないかということだ。
後者においては、「パラドックス」という考え方もあることから、調べてきたことを、本人が自分の将来を悟るような話をしてはいけないという「禁断の法度」が存在していて、必要以上なことを言うことができないというものだ。
だから、克之にとっては、納得のいく答えを求めることは元々無理ではないかと思えてきた。もし、「七夕男」が答えを躊躇するようなら、彼は確実に自分の未来を知っているという発想で間違いないように感じた。
――自分の未来を知っている男と話を続けるのは苦痛だ――
相手が何を言いだすか分からないということと、中途半端に話をされて、消化不良と極度の不安感だけが残ってしまうことを必至だと感じた克之は、次第に「七夕男」のことを怖がるようになってきた。
怖がっていると、どうしても相手に対して劣等感を感じるようになり、主導権を握られていることにマヒした感覚は、自分の内部から、それまでにない感覚を沸き起こさせることになるのを、克之はまだ知る由もなかった。
克之は、彼女のことを聞きたい心境もあったが、
――もし、この男が僕の将来を知っているとすれば、これ以上この話題を続けていくことは恐ろしい――
と感じた。
意識はまたしても、感覚をマヒさせて、いろいろ考えている自分を他人事のように思わせることで、克之の内部からは、目の前の状況に左右されず、自分を意識している女性と、自分との世界に入って行く感覚に陥っていくのだった。
克之はその女性を意識し始めた頃のことを思い出していた。
「七夕男」の存在が次第に大きくなっていったが、ある日突然、目が覚めると、「七夕男」のことが架空に感じられることがあった。
今感じている「感覚がマヒした」という状態とは微妙に違っていた。
明らかに夢を見ていた。それまでにも「七夕男」の夢は何度となく見てきたのだが、目が覚めると覚えていない。怖い夢だったという意識があり、今まで怖い夢であれば覚えていたくなくとも忘れることはなかったのに、その時は思い出そうとしても思い出せなかった。
――夢なんてこんなものなんだ――
と克之は感じていたが、どうして目が覚めたのかを思い出してみると、目が覚めた瞬間に、身体に電流が走ったような気がしたのだが、それがどこから来るものなのかを考えていると、
――金縛りに遭っていて、目が覚めた瞬間に、金縛りから解放されたんだ――
と感じた。
そのことを感じたのは、身体から吹き出している汗の気持ち悪さに気付いた時だ。目が覚めた瞬間は、金縛りから解放された感覚しかなかったので、分からなかったが、
――こんなに汗を掻いていたなんて――
と感じるほどで、今までにここまで汗を掻いたことがあったのかを、過去に遡って考えていた。
起きてから、汗を掻いていたということは今までにも何度かあった。しかし、そのほとんどは、起きた瞬間に気持ち悪さを感じ、金縛りに遭ったような気がしたのだ。だが、今回は反対に金縛りから開放された。いつもと状況は違っていた。
ただ、あれだけ汗を掻いているにも関わらず、それほど気持ち悪いとは思っていない。汗がすぐに乾いてしまう予感があり、さらに、乾いた汗からほのかな暖かさが身体の奥から醸し出されるのではないかとも感じていた。
実際に身体がほのかな暖かさに包まれるまで、少し時間が掛かったが、それでも時計を見れば、目覚ましが鳴ったであろう時間から、二、三分しか経っていない。それを思うと、夢がどれほどの長さだったのか、想像することは難しいことが分かった。
克之が「七夕男」のことを意識するピークがやってきたことをその時に感じた。
「今日からはあまり意識しないで済むかも知れないな」
夢を覚えていないのもその証拠かも知れないと思った。
――「七夕男」との決裂――
克之は、真剣にそう感じたが、今まであれだけ意識していた自分にとっての規格外の人間の存在をそう簡単に忘れられるものではないだろう。
ちょうど、克之が自分を意識している女性の存在に気が付いたのが前の日のことだった。明らかに自分を意識している女性の登場は、今まで孤独が身体に沁みこんでいるとまで思ってきた克之に、「七夕男」の存在とは違う世界を感じさせた。
それまでが「影」だとすると、目の前に広がるのは「光」である。
――一番最後に光を感じたのは、いつだったのだろう?
同じ光でも種類が違っていた。
克之は「光」というものを一種類だと思っていた。少なくとも「影」は一種類だと思っている。