浄化
「反乱やクーデターというものは、暴力の中から生まれるもので、それを悪いと考えるのは、民主主義ならではなのかも知れない。平和を保つには、一度できてしまった体制を、根本からひっくり返すことが不可欠なこともあるんだ。世の中一筋縄ではいかないということは、君にだって分かるだろう?」
「民主主義の時代には、確かに平和と呼ばれるものが根底にあって、それがなければ、民主主義とは言えない気がします。でも、そんな世の中では、無数に小さな規模で、争いや、上下関係を決定させようとする力が蠢いている。それが平衡感覚を保っていたりして、一人が潤えば、必ず影で誰かが損な役回りを演じる。すべての人間が平等だなんて、そんなものは理想郷にだってありはしないんですよ。だから、民主主義の世界の人間は、無気力な人が多いのかも知れない」
克之は、今までにも民主主義のことを憂いたことが何度もあった。その時々で、我を見直してみたが、それ以上幅を広げられない。世の中というのは、表の顔は、「まわりのため」と言いながら、実際には、自分だけのことしか考えていない人ばかりである。そんな魔物のような世界に、個人の不満が燻っているのだから、一触即発であったとしても、当然と言える。
克之は「七夕男」の世界だけではないような気がしていた。
――まるで自分たちの未来のようだ――
SF映画などでよくあるではないか。将来核戦争が起こって、世の中が廃墟と化し、無政府状態になった世の中に、救世主が現れるのを待っているようなシチュエーション、「七夕男」のやってきた世界はまさにその世界のようだ。
――男はパラレルワールドだと言っているが、本当は我々の未来なのではないか?
と感じた。
将来に大きな政変が起こり、男は過去に戻って、未来のために過去を変えてしまおうと考えているのではないかと思うと、恐ろしくなった。
「君の考えていることは分かっているよ」
「七夕男」は、克之が考えを一瞬ためらった瞬間を狙って、声を掛けてきた。あまりにもタイミングが良すぎることで、まさに神業のように思えてきた。今度は自分の怯えが「七夕男」の来た世界に対してのものなのか、それとも「七夕男」本人に対してのものなのか分からなくなった。
怯えが一つではなく複数になってくると、自分が何を考えているのか分からなくなってくる。特に共通点が存在すると、その気持ちは余計である。
最近、克之は自分の記憶力が低下してきたことを気にしていた。
――いろいろなことを考えすぎるからなのかな?
とも思ったが、何かを考えているとすれば、学生時代の方がたくさんあった。絶えず何かを考えていた学生時代。本もたくさん読んだし、「七夕男」の出現に対して、さほどショックを感じなかったのは、学生時代に読んだ本の中に、似たような主人公がいたのを思い出したからだ。だが、それがどの本のどんな内容だったのか、ハッキリとは覚えていない、それが克之にはもどかしかった。
記憶力の低下は、毎日の生活を惰性に変えた。惰性は集中力の低下を招き、慢心だけが残ってしまい、それが油断へと移行して、失敗に繋がってしまう。
こんな簡単なことが分からない克之ではなかったはずなのに、やはり、記憶力と思考力は比例しているのだろうか?
「どうして、あなたには、そんなに分かるんですか?」
と、「七夕男」に聞いてみた。
「君は、自分の記憶力を気にしているだろう? その分、自分の中にばかり気が入ってしまっていて、まわりに対しての気持ちが薄れているんだよ。君自身はそのことに気付いていないんだろうけどね。それが、見る人から見れば、隙だらけなのさ。だから、人の心を読むことに長けている人間なら、結構分かってしまうんじゃないかな?」
「あなたは、そんなに人の気持ちを看破できるんですか?」
「さっき、言っただろう。君のことは結構調べているって。君の生い立ちや環境を知っていれば、今の君が考えていることくらいなら、俺にでも分かるというものだよ。だからと言って、君はそんなにショックを受けることはない。この世界ではそれで通用するんだからね。でも、君は心の中では、それで構わないと思っているはずだよ」
「どういうことですか?」
「君は、正直者は損をすると思っていても、正直なことが正義であり、自分そのものだと思っているんじゃないかい? 君の性格は自分の中の正義が絶対だと思うところがある。だから、人に看破されても、それはそれで仕方がないと思っているように思えるが?」
まさしくその通りだった。
「七夕男」はどこまで分かっているというのだろう。
――この男も正直者なのかも知れない――
克之の性格を看破した時、一瞬だけだが、してやったりの表情が浮かんだ気がした。だが、すぐに冷静に戻ったが、一瞬の表情を見逃さなかったことに対して、克之は、
――俺にもまだ「七夕男」に対抗できる手段が残っているのかも知れない――
と、感じた。
だが、それも「七夕男」の作戦だったりする可能性もある。完璧な看破をしておいて、その中で油断を誘うことで、さらに深層心理の奥深くにまで侵入することができるようになることを、最初から考えていたとすれば、本当に恐ろしいことだ。
「正直はいいことなんだが、損をするとよく言われるだろう?」
「そうですね」
「でも、損をするわけではなく、自業自得なのさ。正直というのは基本的に『自分に対して』のことだろう? つまりはまわりを考えていないということさ。正直者というのは、ある意味、自己満足に過ぎないということになるのさ。きっと君はそのことくらいは分かっていると思うんだが、自分が育ってきた環境から生まれた感情は、そう簡単に拭い去ることができるものではない。それが君の致命的なところに繋がっていかなければいいと思うんだ」
――この男、いちいちセンターをぶち抜いてくるような話し方をする――
間違っていないだけに、癪に障るが、反論などできるはずもない。
致命的と言われると、ムキになって反論してしまいたくなる。確かに正直者と言われると、思わずほくそ笑んでしまうことが多かった。克之は、そんな自分に今まで何ら疑問を持つことなくここまで来た。そのことを今回「七夕男」と話をすることによって思い知らされたのだ。
克之は「七夕男」の話を全面的に信じたわけではない。むしろ、本当ならこんな話信じられないと思って、
――夢ではないだろうか?
と思うべきなのだろう。
正直に言うと、この一年間も半信半疑であり、今までならこんな半信半疑な状態であれば、「七夕男」の存在も、一年という月日も、長いようで短かったことを思うと、忘れなかったのは、年月というよりも男へのイメージの方が強かったということであろう。
時間の長さは感覚のマヒを促しているような気がする。克之にとって、この一年は仕事に明け暮れていたつもりだったが、ここ一か月ほどは、仕事だけではなかった。本人は、「七夕男」のことが気になって、それどころではなかったつもりだが、克之のことを気に掛けている女性がいることに気が付いたのは、ここ数日のことだった。