寿命神話
麻衣の後ろに佇んでいる人間の息遣いが聞こえる。よく聞いてみると、それは息遣いではなく、苦しんでいるような声だった。
さすがに刑事を何年もやっていると、死を目のあたりにすることは何度もあったが、次第に慣れてくるからなのか、恐怖や不気味さを感じなくなっていた。
しかし、この時に感じた苦しそうな声には、恐怖と不気味さで、身体が震えあがりそうな気持になってきた。一体そこには誰がいるというのだろう?
真っ暗な中に誰かが潜んでいると思うだけでも恐怖を感じるのに、息遣いが苦しそうなのを感じると、まるでもう一人の自分がそこにいるような気分だった。
この感覚は半分当たっていた。苦しんでいるのは自分ではないのだが、そこにはもう一人潜んでいて、まったく気配を感じさせることはなかった。
なぜ気配を感じないのかというと、その人間が自分とまったく同じ周波の人間だったからだ。人間の中には微量ながら電流が流れているという。静電気が発生するのはそのいい例なのだろうが、電流が周波となり、誰がいるかというのを、見なくても分かることがあるのは、その周波を感じるからだった。
しかし、まったく自分と同じ周波を放っている人物なら、感じることはない。それは誰あらん、もう一人の自分なのだ。
そう思うと、さっきまで真っ暗で何も見えなかったはずなのに、急に見えるようになってきた。
――目が慣れてきたからなのか?
と思ったが、そうではないようだ。
もう一人の自分を感じたことで、見えるようになったのだが、もう一人の自分というのは、同じ自分には決して見えないようになっているはずだった。
「だんだん思い出してきたかしら? そこにはもう一人のあなたがいるでしょう?」
山内は驚愕した。
――どうして、この女にはそれが分かるんだ?
と思った時、
「不思議でしょう? 私はもう一人のあなたの側の人間なのよ」
何を言っているのか分からず、茫然としていると、
「人間というのはね。必ず表と裏があって、自分の中だけで表と裏を持っている人もいるんだろうけど、もう一人の自分は存在するの。完全に表と裏を一人の自分の中だけで持っている人には、もう一人の自分の存在が分かるんだけど、それ以外の人には決して分からない。今、あなたにもう一人の自分の存在が分かったということは、あなたには自分の中だけで表と裏が存在している証拠ね」
「何が言いたいんだ」
「あなたは、最初から表と裏を持っていたのよ。自分では分かっていないんでしょうけどね。警官としての正義感のあなたと、嫉妬に狂った裏のあなた。どちらもあなたなのよ。そして、裏のあなたが表に出てきた時、もう一人の自分の存在に気づき、もう一人の自分の囁きに乗って、どんなことでも自分の欲望を満たすためならしてしまう。それがあなた……」
「そんな……」
「だから、あなたは裏の自分が出てきているのだから、その時の記憶が失われていたとしても、それは無理もないこと。それに、失った記憶が絶対に思い出したくないことだというのをあなたは分かっているので、思い出そうと努力することもない。だから、自分に都合のいい記憶の失い方になるのよ」
「どうして、君にはそんなことが分かるんだい?」
「だから言っているじゃない。私はもう一人のあなた側の人間だって」
「君は、一体何者なんだ? 僕の知っている麻衣じゃないということか?」
「そうじゃないわよ。私はあなたの知っている麻衣なの。ただ、あなたが勝手に過大評価したために、あなたにとって私は嫉妬の対象になった。あなたの中にいる裏のあなたのね」
「頭が混乱してきた。じゃあ、僕には裏の自分と表の自分がいて、その二つが存在しているから、もう一人の自分が分かるということなのかい?」
「そういうこと。意識はできるけど、もう一人の自分がどんな自分なのか、きっと想像もつかないでしょうね。他の人は、もう一人の自分を意識することはできないけど、もう一人の自分が存在しているとすれば、そんな人間か想像できるのよ。でも、あなたのように意識することができる人は、その人がどんな自分なのか、そこまでは分からない。実に中途半端で、皮肉なことよね」
「僕は何かしてはいけないことをしてしまったのか?」
「ええ、人を殺したのよ」
「人を殺した? 誰を?」
「佐土原さん」
「えっ? 彼は池に落ちて溺れた事故死じゃなかったのかい?」
「まだ、そんなことを言っているの? 事故死じゃないって、あなたが一番感じていたはずじゃないの。昔、私が彼は決して溺れたりなんかしないって言った時、あなたも同感だって思ってたわよね。その時点であなたは、完全に警官であり、すべてを他人事のように理解させていたのよ。自分の中でね。でも、事故死じゃないことは意識していたはず、警察の捜査の限界は、状況から見て、事故死以外に何物でもないという判断があったからなのよ」
「そうなんだ。だから事故以外にありえないんじゃないか?」
「そう仕向けたのはあなたよね。彼の肩が脱臼していたのは、あなたともつれた時、必死で助かろうとした彼をあなたが、無常にも突き落とした。必死の思いだったはずの彼の脱臼、普通ならもっと捜査されてしかるべきなのに、あなたは刑事に事情聴取されて、脱臼に対して、彼が最近肩を壊していたことを証言したのよね。刑事もその証言を鵜呑みにした。何しろ状況証拠は、すべて事故を示していたんですからね。脱臼だけが気になるところだったのを、あなたの証言ですべてを事故にしてしまった。その時のあなたは、裏だったの? それとも表だったの?」
麻衣の質問に、山内は考え込んでしまった。
――自分の中に、裏の部分があったなんて――
そういえば、刑事のような仕事をしていると、やりきれないこともたくさんある。
他の人はどのように発散させているのか分からないが、自分は放っておけば、時間が解決してくれた。
それを、気持ちに流されているようであまりいい気持ちはしなかったが、それでもやりきれない気持ちを払拭できるのであれば、それ越したことはなかった。
麻衣は続ける。
「私は、最近まで、あなたのことを信じていた。今でも信じていると言ってもいいわ。だからあなたとデートもしてみた。でも、あなたと一緒にいればいるほど、裏のあなたにじっと見つめられているような気がして怖くなるの。あなたには分からないでしょうけど、ストーカーの恐怖って、他人が考えているほど生易しいものではないの」
「……」
「私は、佐土原さんを失って、しばらく自暴自棄になりかけたの。あなたは知らないでしょうけどね。もし、あなたに少しでも、私を正面から見てくれる気持ちがあったら、知ることもできたんでしょうけど、その少しもなかったのよね。そしてあなたはその時の記憶の都合の悪い部分すべてを消し去って、私を好きだという記憶すらも消してしまった。人を殺すほど好きだった相手なのに、本当に殺してしまうと、好きだったということも消してしまわなければいけない。本当にあなたは何をやっているんでしょうね」
彼女の叱責は続いていた。
麻衣の顔を見れば、
「言っても言っても、言い足りないわ」
とで言いたげだった。