寿命神話
だが、普段の毅然とした態度にも、あどけなさがあり、余計に男心をくすぐる表情であることを誰よりも感じていたのが、山内だった。
――俺はあの頃の麻衣が好きだったんだ――
そう思うと、自分が好きだった麻衣が目の前にいる。
再会した十年後の麻衣は、まるで別人だった。十年前の麻衣には、毅然としたところがあって、決して誰からも愛されるというわけではなかったが、気になってしまうと、最後好きになるのは決まっていたような気がする。
――佐土原がそうだったんだろうな――
麻衣もそんな佐土原を好きだった。
麻衣のことを好きな男性は、思っているよりもたくさんいた。しかし、麻衣と付き合おうとまで思う人はいなかった。
「誰も付き合っている人がいないのなら、俺にだってチャンスがある」
と誰もが思ったはずだろうに、実際に麻衣に告白をしてくる人はいなかった。
好きになってから、付き合いたいと思うまでにいくつかの過程があり、そこを通過できなかったのだろう。
「恋愛と結婚は別」
というが、好きになってから、付き合い始めるまでにも同じような思いがあるのかも知れない。
――断られるかも知れない――
という思いから、
――断られるに違いない――
という思いに変わるまで、紙一重だったのではないだろうか。一歩踏み出せば、断られるに違いないなどとは思わなかったのかも知れないが、一歩踏み出す前に、紙一重の境界が自分を筒でしまったのだ。
山内も、断れられるに違いないと思った一人だった。
根拠などどこにもなかったはずなのに、何を感じたのか分からなかった。しかし、今、いきなり佐土原と付き合っていたのを知っていたのかなどという質問をされて、戸惑ってしまった自分を顧みると、我に返った気がした。
麻衣の中に感じたサディスティックな部分。
誰もが、麻衣のあどけなさの中に何かを感じながら、それが何かを分からずに好きになるが、付き合うまで行かないのは、その何かに気づいたからだ。それが、麻衣の中のサディスティックな部分なのだ。
「一体、僕のどこが記憶を失くしているというんだい?」
と聞くと、
「あなたは、自覚がないようですね。あなたは、都合の悪いことは記憶を失くしてしまい、しかもほとぼりが冷めると、その記憶がいつの間にか元に戻っているタイプの人がこの世にいることを知っていましたか?」
麻衣は、それを山内のことだとでもいうのだろうか?
「いや、知らない」
山内は、それまでと態度が変わっていた。
この変わり方は、今まで自分の方が優位だと思っていた相手が、自分の知らないことを知っていることで、急に立場が逆転し優位に立ったために、自分が今までにない不安に駆り立てられたことから起こる変わり方だった。
何しろ相手は、こちらの意識がないのをいいことに、
「記憶を失っている」
というのだ。簡単に信じられることではなかった。
しかし、この言い知れぬ不安はどこから来るのだろう? 相手が自分も知らない自分のことを知っているとでもいうのであろうか?
「あなたは、人を殺したのよ」
とでもいうようなことを言いだすのではないだろうか?
そんな不安に駆られていると、麻衣は呟くように言った。
「あなたは、まだ心の中で、ほとぼりが冷めたと思っていないのね。だから、記憶を失ったままなのだわ」
というと、
「君は、何のことを言っているんだい? 僕がまるで君がいうような都合よく記憶を失った人間のような言い方だけど」
「ええ、その通りよ」
「僕が一体、どこで何をしたというんだい?」
さすがにここまで来ると、山内も落ち着いてはいられなかった。
「あなたは、砂土原さんを殺したのよ。表向きは事故だったんだけど、あの場所に彼を呼びだして、不安定な場所を作り出して、彼を突き飛ばして、池に落としたの。本当なら彼は泳ぎが上手なので、溺れるはずはないんだけど、あなたは、彼に睡眠薬を飲ませていたのね」
「でも、睡眠薬を飲んでいたなんて、僕は知らなかったよ」
それにはさすがに驚いた。
警察の人間である自分が知らないのに、被害者の関係者の一般人が知っているというのはどういうことだろう?
「知らなかったのは、捜査本部の方でも、あなたを少し疑っていたからなんでしょうね。あなたは、警官という立場から、彼のことを密かに見張っていても、目立たないと思っていた。でもね、あなたは結構目立っていたのよ。特に彼や私のまわりの人から見ればね。だって私と彼は付き合っていたんですから、そんな彼や私のことを見ていれば、目立って当然よ。しかも、あなたは警察官というものは、市民を守るための影の存在のように思っていたので、行動も大胆になっていたんでしょうね。でも、あなたが考えていた警察官というのは、警察官から見たイメージで、民間の人から見れば、少しでも怪しいと思えば、すぐに目立ってしまうのよ。何しろ、自分たちとは違って、武器を持っているわけですからね」
山内はその話を聞きながら愕然としていた。
――麻衣は、こんなことをいうような女性だったんだ――
と感じながら、麻衣が自分に対してここまで強硬に話をしているのに、心の中で、
――これが俺が好きになった女性だったんだ――
と感じていた。
麻衣と再会した時、懐かしさはあったが、どこか物足りなさもあった。
自分が麻衣を好きだったという意識はなかったが、いずれ好きになるのではないかという意識はあった。そう思った時、巡査になって街に配属になった時の懐かしさと新鮮さがよみがえってきた。麻衣のイメージは、そのまま自分が好きだった街のイメージそのままだと感じたからだ。
しかし、一歩進んで、自分が麻衣を好きだったからだということにどうして気づかなかったのだろう。そもそも人を好きだったということは気づくものではない。忘れるはずのないことだと思っているからだ。
いくら成就することはなくとも、失恋や片想いは、淡い思い出として心の中に残っているもの。忘れようとしても忘れられないもので、忘れてしまうと、そのことだけではない他の思い出も一緒に忘れてしまうだろう。
だから、
「あなたは記憶を失っている」
と、麻衣の言った言葉を、簡単にウソだと決めつけることができなかったのだ。
そんなことを考えていると、自分が夢を見ていることに気が付いた。
さっきまで、バーのカウンターで麻衣と呑んでいたはずなのに、さっきまで目の前にいたはずのマスターはいなくなっていた。そこに誰か違う人がいるように感じたが、暗くてそれが誰だか分からない。
場所は確かにバーカウンターで自分は椅子に座っている。横には麻衣が座っているが、さっきまで一緒に呑んでいた麻衣ではなかった。あどけなさと懐かしさが残るその表情は、十年前の麻衣だった。
二人を照らすスポットライトが眩しくて、そのまわりは、真っ暗だった。カウンターの奥に潜んでいる人物が暗くて見えないのは、そのせいだった。
「あなたは、これから失った記憶を取り戻すのよ」
そういうと麻衣は、今までのあどけなさから、まったく違う形相になってしまった。
「どういうことなんだい?」
と問いただしても、もう麻衣は答えない。