寿命神話
「でも、確か紀元研究会というのは、元は宗教団体だったはず。その団体が『寿命を延ばす』という発言をするというのは、いかがなものかと思うんですが?」
「どういう意味でしょう?」
「人の寿命というのは、その人には決められるものではないので、寿命への踏み込みは、『神への冒涜』ではないかと考えるのではないかと存じますが、いかがでしょう?」
「我々は、今は宗教団体ではありませんし、宗教団体だった時も、別に神を崇めるなどという会ではなかったので、そのあたりはあまり意識していません」
「崇拝思想はしていないということでしょうか?」
「世の中の人たちは、宗教関係の団体だと聞くと、十羽一絡げのように判断しているようでっすが、宗教法人として登録していても、別に崇拝思想であるわけではないんです。それに歴史的にも戦争や紛争は、宗教が絡んでいることが多いので、どうしても宗教団体は白い目で見られがちなんだと思います。『神を信じて、人を救うと謳っている宗教団体が人殺しをしてもいいものか』ってですね。確かに昔からある宗教団体は元は一つで、それが時代の流れとともに、いくつかに分裂し、派生して行った。でも、我られの団体は、宗教色はそれほど強くはなかった。それだけは事実です」
「そうなんですね」
「我々は、神を崇拝するというよりも、目線はあくまでも人間の目線でしか見ていません。だから、日夜研究を続けているんです。人間だって、今のままでいいわけではなく、まあ、今のままでいいという人もいるんでしょうが、もっと成長するものなのだと思っています。長い間かけて、進化してきたものを、一気に進化させるという研究を続けていると思ってもらえればいいんじゃないでしょうか?」
「その考えも、他の宗教団体の人から見れば、『神の冒涜』になるのかも知れませんよ?」
「どうしてですか? 人はそれぞれ努力して、自分の持っている能力をできる限り引き出そうとするものですよね。これは他の動物にはない、人間だけの特性ですよね。それに、超能力を持った人間が現れると、人はすぐに話題にしたくなる。昔あったスプーン曲げや透視能力や予知能力などの番組など、そのいい例だと思うんだけど、いくら話題作りとはいえ、それには僕は反対だったね。当時の人たちが、何を求めていたのかというのは、今の人からは想像もつかないのかも知れませんけどね」
「それはそうです。私も後半の意見には賛成ですね」
「個人個人で努力をしても、結局は知れているんですよ。でも、世の中は一人一人の努力を手助けするくらいしかできない。ともに全員が高度な能力を得るということを目指しているわけではないんですよ」
「どうして、そう思うんですか?」
「だって、世の中というのは、しょせんは競争世界ではないですか。人を押しのけてでも自分が上にいく。人よりも優秀な成績を上げることで合格するんですよ。定員があるものは、いくら成績がよくても、全体の平均点がよければ合格できない。例えば昨年は六十点取れば合格できたのに、今年はできないとかあるじゃないですか。去年は平均点が五十九点だったんで合格できたけど、今年は六十一点なので、合格できなかったというようにね。極端な例ですが、いくら自分が努力しても、まわりの水準が上がれば、合格にはおぼつかない。だから、最後は自分との闘いなんですよ。美化された言い回しですが、結局は、『自分だけが良ければそれでいい』という感覚になってしまう。それでは社会全体、人間全体が成長できるわけがないんですよ」
「じゃあ、何のために成長するんですか? 別に今のままでもいいじゃないですか」
「そうですね、今の世界だけしか見えない人にはそうかも知れません。でも、今の社会というのは、皆が今のレベルだから出来上がった競争社会なのかも知れません。皆がもう少しレベルアップして、自分だけのことではなく、社会全体について考えるようになると、全体のことを考えて、競争のない平和な世界が生まれるかも知れない。それが私たちの考え方なんです」
「でも、競争社会があるからこそ、少しずつでもレベルが上がっているのかも知れませんよ」
「全体のレベルが上がっても、個人個人の意識がレベルについていけなければ、さっき言ったように、前の都市なら合格していた人が合格できなくなることになる。合格できなかった人は本当にレベルが低いと判断していいんですかね?」
「いいと思いますよ」
「私は違うと思っています。競争社会の中でレベルが上がってくると、危険な兆候が出てくるように思うんですよ」
「それはどういうことですか?」
「レベルがあがるという判断は、あくまでも平均点でしか見ていませんよね。でも、その平均点を引き上げているのは、一部の優秀な連中であって、低いところの連中のレベルは変わっていない。むしろ下がっているかも知れない。社会自体が、レベルがあがったことに対して、より優秀な人間を一人でも作り上げようと考えるからですね。そうなると、格さというのはどんどん広がるばかりで、社会的にも貧富の差を生むだけになるんですよ。もっとも、それが民主主義の産物のようなものなので、どうしようもないと考えている人の方が多いかも知れません」
「確かに、民主主義の問題は、貧富の差や差別問題を避けては通れないところがありますね」
「たぶん、今の社会は、それは仕方のないこととして諦めの境地に立っているんでしょうね。だから、個人の力をあげることにまい進して、競争社会から脱却することができない」
「そうですね」
「そもそも教育というのは、そんな競争社会を生むものだったんでしょうかね? 学問というものがあり、一部の学者や研究家が発見したことを、広く教え、それを基礎学力にするのが、教育だったと思うんですが」
「それにも同感です」
「研究による発見が長い歴史の中で培われたように難しいものもある。そのため、途中で分からなくなった人を、そのまま進級させて、それ以上の教育を受けさせるのは酷だということで、小学校、中学校、高校、大学と、それぞれの段階やレベル、そして年齢に応じた学校が出来上がった。中学までは義務教育、そこからは、学問をしたい人だけが学問をすればいいはずだったのに、いつの間にか、高校まで出ていないと、就職が難しいとか、学校のレベルで、進路が決まってしまったりする世の中になってしまったんでしょうね。本来なら生徒を救うべき教育が、生徒を縛って、苦しめているんですよ。これは全体のレベルよりも個人のレベルを考えた産物なのかも知れない」
「逆に、全体のレベルを考えるから、個人のレベルを上げないといけないと思うんじゃないですか? そう考えると、まるで禅問答のようだ。『タマゴが先か、ニワトリが先か』のあの理論ですよね」
「そうなんですよ。分かっているじゃないですか」
「ええ、分かっているつもりだったんですが、なかなか普段は考えることがないので、お話をしているうちに分かってきたような気もしているくらいです」
「そうでしょう? こういうことは定期的に考えたり、話し合ったりするべきなんですよ。世の中というのは、どうしてもこういう話題から目を逸らしがちになってしまいますからね」
「まさしくその通りです」