寿命神話
それに対しての法整備も追いついていない。急激な世の中の変化に、社会がついていけない時代が続いていた。
この話も、ジャーナリストにしてみると、
「そうですね。私はずっと紀元研究会の中にいたので、世間のことをまるで他人事のように見ていましたが、他人事のように見ていても、その陰湿さが伝わってくるのが最近の時代なんですよ。世界大戦が終わって、米ソの二代大国による時代を『冷戦』つまり『冷たい戦争だ』と言いましたよね。まさに今の時代はそうなんでしょうね。社会問題にしても、昔のように、一つの大きな問題があるわけではなく、小さな事件が無数にあって、掴みどころのない時代に入ってきた。まさしく今こそ『冷戦の時代』だと言えるんじゃないでしょうか?」
「まさしくその通りですよね。私も警官から刑事になって実際に捜査に加わるようになると、特にそう感じますね。警察の力の限界とでも言うんでしょうか。正しいことをしようとしても、何もできない。しかも、悪だと思っている連中から、何もできないことをあざ笑われて、どんな思いでそれに耐えているかと思うと、こんなに悔しいものはない」
思わず愚痴をこぼしてしまったが、本音だった。
「ところで山内さんは、何か紀元研究会に興味があるんですか? 何かを調べているとは思うんですが、あの団体に犯罪の影は見えなかったように思うんですが」
「本当にそうですか? ウワサらしいものは、いろいろ聞いたんですけどね」
「どういうウワサですか?」
「入信した人が、実は行方不明になっているとか、誰かの身代わりにされているとかですね」
それを聞いたジャーナリストは苦笑いを浮かべて、
「ははは、そんなことはありませんよ。宗教団体への偏見がそういう噂になったんでしょうね」
彼の表情を見ている限りでは、ウソを言っているようには思えなかった。
それは、本当に彼の言っていることが事実だからそんな表情になったのか、それとも、彼自身、何も知らされていないのかのどっちかにしか思えなかった。
だが、紀元研究会は、入信も脱退もある程度自由だというではないか。いつ誰の口から秘密が漏れるかもわからない。そんな状況で、何かヤバいことができるというのもありえない気がした。
もう一つ、入信と脱退が自由だというと、一つ気になるのが、団体の運営に関してのことだった。
他の宗教団体は、入信の際にはお金を取ったりしているはずだ。宗教法人と言っての慈善事業ではない。資金が必要なのは当然のことで、どこからそれを得ているのか、分からなかった。
内通者も、団体に寄付をさせられたりしたわけではない。
「来る者は拒まず」
というのがモットーのようで、宗教団体としては、本当に異色な存在だった。
「きっと、一般の信者には分からないところでスポンサーがついているんだ」
と内通者は言っていたが、そのスポンサーが問題だ。
どこかの団体なのか、それとも個人からなのか分からないが、ひょっとすると、紀元研究会がその人、あるいは何かの団体の「隠れ蓑」のような存在なのかも知れない。
そう考えると、少し厄介である。
何かの力が働いていると思うと気持ち悪くなった。
「悪魔は、言葉巧みに人に近寄り、人間であれば、誰にも敵うことのない力を与えると約束したが、その代償として、その人の目標が達成させると、その人の血液を一滴残らず差し出さなければいけないという契約だ」
という小説を読んだことがあった。
つまりは、命と引き換えに自分の目的を達成するという、命がけの契約なのだが、これを見て、意見は賛否両論なのではないだろうか。
「いくら目標が達成されるとはいえ、そこで死んでしまうのであれば、何にもならないのではないか」
という考え方。
または、
「目標が達成されるのだから、死んだって構わない。どうせ、寿命を全うしても、目的を達成できなければ、生きていた意味がない」
という考え方、
はたまた、
「目標が達成できるかどうかは二の次で、寿命を全うする中で、どれだけ目標に近づけるかどうかが生きている意味であり、生き甲斐なんじゃないか。だから悪魔に血を売るなどという行為は許されない」
という考え方である。
「倫理観、潔さ、生き甲斐」
それぞれに、言い分があり、間違った考えではないと思っているだろう。
そもそも、何が正しいのかなどということは生き方については、人生を全うしなければ分からない。終わってしまわないと分からないことというのは往々にしてあるというもので、山内も、時々考えることだった。
山内が考える宗教団体というのは、二番目の潔さにあるのではないかと思っている。
特に人生に失望したり、目標を見失いかけているような人、さらには、目標に対する思いが強すぎて、世の中の理不尽さが身に染みて分かっている人などは、この潔さに感服するのではないかと思った。
――世の中に裏表があるとすれば、もう一方の世界は宗教団体の存在のようなものなのだろうが、ではどちらが裏で、どちらが表なのかと聞かれたら、自分は何と答えるだろう――
と、考えていた。
山内は、宗教団体というものは、人間の弱い部分に巧みに入り込み、甘えたくなる気持ちを引き出すことで、何かに頼ろうとする人間本来の本能を利用するものだと思っていた。それがいいことなのか悪いことなのかというのは、
――考えるまでもなく悪いことだ――
と思い込まされていた。
それは、まわりの話からもそう思えたし、実際の報道を見ていても、そう思わされるプロパガンダがその中にはあったのだろう。
二十年前のスポークスマンの存在が、そのことを証明していた。
彼は時間稼ぎの役割だったが、本来は宗教団体を正当化し、信者を増やしたり、信者の家族を安心させるのが、本来の役割だったはずなのだ。
違う役割を押し付けられたことで、彼は時の人となった。自分の立場に何を感じて、彼はマスコミの前に立ちふさがっていたのだろうか?
山内は最初、今回会ったジャーナリストも、あの時のスポークスマンと同じような人なのではないかと思って会ってみた。しかし、途中で少し雰囲気が違っているのを感じ、話を聞いていたことに気が付かなかった。そして、最後までそのことに気づかなかった。
しかし、彼と別れて冷静になると、自分が最初に思っていた雰囲気と違っていることに気が付いてみると、今度は彼の話をどこまで信じていいのか分からなくなった。これでは彼と会った意味がないではないか。
その感覚は、
「タマゴが先か、ニワトリが先か」
という理論に似ている。
彼と会ったことで、本当は紀元研究会の内情を知ることが目的だったはずなのに、その目的を知ろうとすると、彼を信じないといけなくなる。しかし、彼を信じるということは、紀元研究会への疑惑を追及したい自分にとって、
――信じてはいけない人を信じなければいけない――
という一種、辻褄の合わない理屈を正当化させなければいけなくなってしまう。
「入信した人が、実は行方不明になっているとか、誰かの身代わりにされているとかですね」