寿命神話
農業の時期には、農作業を手伝ったり、通学時間帯には、率先して見回りを強化したり、自分から街の人に溶け込んできたおかげで、摂れた農作物を持ってきてくれる人も後を堪えなかった。
中にはお弁当を作ってくれる人もいて、完全に街の一員になっていた。
そんな頃、一人の青年が池で溺れて亡くなったという事件があった。
その青年は、元々は街の人間ではなかった。都会の大学を卒業し、都会で就職したのだが、生活に疲れて田舎にやってきた。大学は農学部だったこともあり、農業には興味もあったことで、住み着いてから農業の手伝いをしていたが、実にさまになっていた。山内も、そんな彼のことを気に入っていて、
「今時珍しい真面目な青年だよな」
と、一目置いていた。
その青年も、山内とり一歳年下というだけで、年齢的に近いこともあり、話が合うようだった。
「兄貴」
と言って慕ってくれていたが、年齢としては一歳しか違わないのに、それ以上の年齢差を感じているようで、山内には本当に弟ができたようで嬉しかった。
そんな彼が、池で溺れて死んだ。
彼は運動神経は決して悪い方ではなく、泳ぎも達者だと聞いていた。それなのにどうして溺れたのか、不思議だったが、発見された死体を見て、監察医は、
「これじゃあ、泳げなかったでしょうね」
と言った。
「どうしてですか?」
と聞くと、
「彼は、肩を脱臼しています」
「えっ? 池に落ちた時に脱臼したんですかね?」
「ええ、これほどの脱臼した状態で、治療も施していないというのは、考えにくいことですからね。きっと身体を捻ったか、何かに捕まろうとして無理な体勢になったかのどちらかなんじゃないでしょうか?」
それが監察医の見解だった。
彼は名前を佐土原修二と言った。
佐土原の遺体は家族が引き取り、荼毘に伏された。葬儀も佐土原の家で行われたようで、街からも町長をはじめ、山内も参列した。
彼は人望が厚かったようで、大学時代の友人が多数集まってくれていた。就職してから入社した会社からは誰も来ていなかったこともあって、
――なるほど、彼が話していたように、都会の生活に疲れるはずだ――
と思わせた。
佐土原は事故として処理されたが、実際の死亡推定時刻が明らかになると、ちょうどその時、山内は近くをパトロールしていたことが判明した。
「もう少し、僕が気を付けて見回りをしていれば……」
後悔しても始まれないが、この思いは山内の中で静かなトラウマとなった。
監察医の人からは、
「あなたのせいではないですよ。仕方のないことで、不慮の事故ですからね」
と言って慰めてくれたが、それくらいのことで、精神的な苦痛が取れるわけはない。
一つ気になっていたのは、その時に顔色が悪かったのが麻衣だったということだ。
最初は顔色が悪かっただけだったが、次第に山内に対して憎しみに近い表情を見せるようになった。だが、それも少しの間のことで、
――なぜそんな表情をするんだ?
と、感じた時には、もう普通の表情になっていた。
――気のせいだったのかな?
と思い、麻衣が自分を睨んでいたという意識は、すぐに忘れ去ってしまっていた。
佐土原の死は完全な事故だった。誰にもどうすることもできなかったことで、運が悪かったとしか言えないだろう。
運が悪かったといえば、ちょうどその時、道から池への策の一部が壊れていて、そこから落ちたからだった。ただ、兄貴として慕ってくれていた人が急に目の前から消えてしまい、二度と目の前に現れることはないと思えば、やりきれない気持ちにもなるというものだった。
それでも、ずっと塞ぎこんでいるわけにもいかず、また今までと同じ毎日が始まった。街の人も何事もなかったように生活しているのを見ると、彼の存在が本当に消えてしまったことを思い知らされたが、思い知ることで、これ以上必要以上に落ち込むことのないようになったのだ。
山内は、バーで元気に話をしている麻衣を見ていると、つい昔のことを思い出してしあった。その時に自分に恨みを持って見つめていた目を思い出してしまったが、それは十年も前のこと、今の麻衣からは想像もできないほどの幼さだった。
しかし、幼さが残る中で、バーでアルバイトを始めた時に感じた大人の色香は、今の麻衣を彷彿させるものだったことは間違いない。
――あの時の麻衣の中に残っていたあどけなさが消えると今の麻衣になるんだ――
と思うと、あの時のあどけなさを必死に思い出そうとしている自分がいることに気づいて、少し恥ずかしく感じられるほどだった。
――バーカウンター越しに見たあの頃の麻衣と、今の麻衣ではどっちを好きになるんだろう?
山内は、今自分が麻衣をオンナとして意識していることを感じている。好きになっていることも分かっていた。しかし、それも昔の麻衣を知っているから好きになったんだと思っている。そこには、今と昔の間に存在するギャップが影響しているのだろうか。そう思うと、
――元々自分は麻衣のことが好きだったのだ――
と思えてならなかった。
「麻衣ちゃんは、あれからずっとお母さんのお店で?」
「いえ、私が街から出てきたんです。今、お母さんのお店には、アルバイトで他の女の子が入っています」
「こっちにはいつ頃から?」
「もう三年近くになります。だいぶこの街も慣れてきたところです」
「誰かのつてを頼ってきたのかい?」
「実は、山内さんが巡査時代に池で溺死した佐土原さんっていたでしょう? あの人の実家にしばらくお世話になっていたんですよ」
「えっ、麻衣ちゃんは佐土原さんと知り合いだったのかい?」
「ええ、勉強を教えてもらっていたんですよ。私が短大に合格できたのも、佐土原さんのおかげなんです。ただ、途中であんなことになってしまって、しばらくは勉強が手につかなかったんですが、開き直ると、彼のためにも頑張らないといけないと思い、頑張って合格しました」
「そうだったんだね。麻衣ちゃん、よく頑張ったよね」
そう言って麻衣を見つめた。
あの時の麻衣が山内を見つめていた目が、恨みの籠ったように見えたのは錯覚だったのかも知れないと思った。
事情が分かってくると、麻衣が自分を恨みに思う眼をするとは考えにくかったからである。
――すぐに忘れてしまったのは、その目が本当に恨みの籠った目だという自信がなかったからなのかも知れないな――
と感じた。
「そんなことはないですよ。私は佐土原さんにも感謝しているし、山内さんにも感謝しているんですよ。佐土原さんがいなくなって心細い時、山内さんがそばにいてくれているようで、本当に嬉しかったんです」
そう言った麻衣の顔がほんのり赤みを帯びたのを見逃さなかった。
いくら十年近く経っているとはいえ、久しぶりに再会した人が自分の好きだった人だと思うと、この十年をまるで昨日のことのように感じたとしても、それは大げさなことではないのではないだろうか。
「ありがとう。なんか照れ臭いな」
この言葉にウソはない。
この時ばかりは、本当に自分が刑事であることを忘れてしまいそうだった。いや、麻衣と一緒にいる時は、自分は刑事ではない。一人の男性として、彼女に接することが最高の悦びになるからだ。