記憶の十字架
と、睦月は、最初森山を感じた時、思わず苦笑いしたのを思い出した。
森山を見ていると、まわりに知られたくないという一心があるためか、すべてにおいてぎこちなく感じた。話をしていても、どこかギクシャクしている。ビクビクしているわけではないのに、ギクシャクしているというのは、実に不思議な感覚だった。
だが、ここから先の記憶が睦月には繋がっていなかった。
森山に対して、どこか納得いかないところがあると思っているのは、そのせいかも知れない。
この間の記憶のどこかに、睦月が森山と結婚したいと思ったきっかけがあるのではないかと思っている。
ただ、一つ睦月が分かっていることがあった。それは。森山が、どんなに鈍感でも、
――睦月のことだけは、すべてを分かってくれているのではないか?
と思うところだった。他の人には鈍感な部分を曝け出しているのに、睦月に対してだけは鈍感さで迷惑を掛けたり、気を遣わせることはない。そんなところに森山が惹かれたのは事実だが、結婚しようと考えるに至るには、それだけでは少し物足りない気がした。何か、他に少しでも想いがあれば、何も考えることなどないのだった。
睦月が忘れてしまっている半分の記憶、そして、その中にあるであろう森山に対しての――結婚したい――
と感じた彼に惹かれた部分。睦月は森山がそんな思いを感じていることに気付いているのかも知れないと思った。
睦月は半分失くした記憶のほとんどは、子供の頃のものではないかと思うようになっていた。
今の記憶のほとんどに矛盾はあまりない。
――森山を好きになったきっかけ――
という一番大切である問題もあるにはあるが、それ以外は問題がない。
子供の頃から、特に中学、高校時代と、
――ほとんど友達はいなかった――
という意識が頭にあるにも関わらず、なぜか友達とどこかに行った記憶だけは存在する。実に不思議な感覚だった。後から意識によって作られる記憶などあるのだろうか? 睦月は、そうだとしか思えない。
だが、そんな記憶を作るとしたら、何か理由があるのだろうか?
「木を隠すなら、森の中」
というではないか。
何か隠したいことがあるなら、そのまわりのものすべてを消してしまう方がぎこちなくていい。下手に繋がりがなくなるから、
――記憶が飛んでいるのではないか?
と感じるのだ。
繋がっている記憶すべてがなくなってしまえば、不思議に感じることもない。それが、睦月の今考えている思いだった。
森山の方は、睦月が自分を鈍感だと思っていることをずっと前から知っていた。それも、森山が自覚している鈍感さよりも、睦月が考えている鈍感さの方がかなり大きいと思っていたのだ。
――そんなに、鈍感なところを見せたかな?
と思っていたが、
――睦月が自分のことを分かってくれているからに違いない――
と思うことで、少し自分の気持ちを抑えていた。
森山も睦月のことはある程度分かっているつもりだった。それは睦月が感じているであろう、
――この人は私のことを分かってくれている――
という思いよりも強いだろうという自負があった。
実は森山も、
――自分も記憶のどこかが欠落している気がしている――
と思っていた。
ハッキリとした確証があるわけではない。却って確証がない方が、森山にはリアルに感じられた。確証がウソだというわけではないが、想像を膨らませるには不要なものだという思いがあるからだった。
欠落している記憶の中に、一人の女性がいるのは何となく分かっていた。
――その人の存在があるから、睦月のことがよく分かるのかも知れない――
と思うようになっていた。
森山は、このことを睦月には知られたくないと思っている。自分の記憶が欠落していることはもちろん、その中に女性が存在していることもである。森山は、
――自分に前に彼女がいたとしても、睦月は気にしないのではないだろうか?
という思いを持っていた。
むしろ、彼女がいなかったという方が不思議だと思うかも知れない。もし、森山が睦月の立場だったら、そう思うに違いないと思ったのだ。
森山の性格は、睦月から見ると気さくに見えた。一人でいることの方がいいと思っている睦月なのに、森山だけは別だった。
――彼には、女性を引き付ける何かがあるのかも知れないな――
睦月が友達がいなかったり、一人がいいと思うようになったのかというと、人に気を遣うのが嫌だというよりも、
――人と争いたくない――
という思いが強かったからだ。
別に、人と仲良くなったからと言って、絶対に争いが起こるとは限らない。だが、睦月は些細なことでも、それが争いになってしまうことを必要以上に怖がっていた。
睦月は争いが嫌いだった。それがたとえ勉強による争いであっても同じことで、受験というものを、
――人との競争――
だと、なるべく考えないようにした。
――自分が成績さえよければ、それでいいんだ――
と思うようになった。
人と争いたくないと思うようになったきっかけは、もちろん受験勉強に代表される勉強ではなかった。むしろ勉強は自分のためにするものだと思っていたので、嫌いではなかった。
ここまで極端な考え方を持っていると、人を寄せ付けなくなるもので、苛めの対象にすらならなかった。別に学校で人を寄せ付けないような仕草をしていたわけではない。人から嫌われようと意識していたわけでもない。だから、まわりの人に近づきにくい雰囲気は感じさせていたが、苛めの対象にはしなかったのだろう。
そういう意味で睦月は、
――空気になりたい――
と思っていたに違いない。
ただ、睦月がなりたいと思っていた空気は、漠然としたものではない。普通、空気になろうと考えると、
――風が吹いてくれば、風に逆らうこともなく流されていたいという思いや、風に靡かないように、しっかりと自分を重たくしていよう――
という二つの考えなのだと思うが、睦月は違っていた。
――風が吹いてくれば、逆らうことなく、風に刻まれるような、そんな空気になりたい――
と思っていた。
風に流されるには、自分のプライドが許さない。さらに、意地を張ってその場に止まるのであれば、空気になりたいと思うことに反していると感じていた。
それなら、相手が切りこんでくるならば、切られるのが一番自然だと思ったのである。
たかが、空気に対してそこまでの考えを持っている人はいないだろう。
「風に刻まれて、お前はそれでいいのか?」
と言われるに決まっている。しかし、睦月は次にこう答えるだろう。
「風に刻まれてバラバラになっても、すぐに身体が引き合って、元に戻るわ」
戻ることができるというのは、睦月の自信なのだろうか?
子供の頃から読んでいたミステリー。この発想は、その頃から培われてきたミステリーに対しての思いから来ているに違いない。その思いが、睦月の中で、
――バラバラになったものでも元に戻れる――
という発想を可能にした。
それはミステリーをストーリーとして読んできたからだった。感情をリアルに感じながら見ていると、到底思い浮かぶものではない。