記憶の十字架
森山も、最初から結婚を意識していたわけでもなく、仲がよくなってからも、最初は結婚とまでは思っていなかった。急に思い立ったわけだが、森山の方でも、
――どうして思い立ったのか分かっていないかも知れない――
と感じさせた。
睦月にとって森山との出会いは、それまでの自分を一変させるほどセンセーショナルなものであったわけではない。それまでに好きになった男性がいなかったわけではないが、一番最初に付き合ったと言える男性は森山だった。
ということは、睦月は森山以外の男性を知らない。初めて付き合った相手と、次第に仲を深めていき、結婚というゴールを目指しているという思いを抱いていた。
結婚が本当にゴールというわけではないのだが、恋愛という意味では、結婚がゴールとなる。つまりは、
――結婚してしまえば、そこから先は恋愛ではない――
と、感じていたのだ。
森山が付き合った相手は、睦月だけではなかった。実際に、睦月と知り合った時、ちょうど森山は失恋してからすぐだった。
森山が睦月を気に入った一番の理由は、可愛いからでも、優しいからでもなかった。確かに、可愛いし、優しさも持っていると思っているが、何よりも森山が気に入ったところは、
――賢いところ――
だったのだ。
賢いというよりも、
――頭の回転が早い――
というところが気に入っていた。頭の回転が早いと、相手に気を遣っていると思わせることなく、さりげなく相手に好感を持たせることができる。それが、森山にとって睦月の最大の魅力だったのだ。
睦月と知り合う前までの森山は、可愛い子であったり、優しい子を探していた。
――その方が、自分にとって癒しになる――
と考えたからだ。
しかし、森山が好きになり、相手も森山と付き合うようになると、最初は、確かに可愛かったり優しかったりする女性は自分が想像しているようなタイプの女性であるが、付き合って行くうちに、今度は距離を感じてくるようになる。次第に相手が横着に見えてきたり、優しさが表面上だけのものに感じられてくると、どうしてもウンザリ来てしまって、自分も表面上の付き合いしかできなくなってくるのだった。
相手も、そのことに気付いてくると、お互いにぎこちなくなってくる。喧嘩が多くなって、そのまま喧嘩別れしたこともあったが、お互いにぎこちなくなると、そのまま自然消滅の形もあったりした。さすがに喧嘩別れのような最悪な別れではないものの、喧嘩別れよりも精神的には尾を引くように思えてならなかった。喧嘩別れの方がいいたいことをお互いに言えるので、案外アッサリしていたりする。その点自然消滅は、その時だけでなく、先の恋愛にも影響を及ぼすような気がしてならなかったのだ。
森山は、今まで付き合ってきた女性に対し、付き合っている時や別れてからすぐなどは、別に違和感を感じていたわけではなかったが、別れてから冷静になると、その時の気持ちから次第に変わってきているのを感じた。
未練などというのは欠片もなく、
――どうしてあんなバカな女たちと付き合っていたんだろう?
と思うようになった。
相手が本当にバカだと思っているというよりも、そんな相手を好きになった自分に情けなさを感じている方が強かった。
――他に、もっとましな女性がいただろうに――
という思いである。そういう意味で、睦月との出会いはセンセーショナルなものであった。そんな素振りは表に出すことはなかったが、睦月との出会いに運命のようなものを感じていたのは事実だった。
睦月はというと、森山の女性を見る目が、他の男性と比べて、ここまでクールだとは思っていなかった。しかし、下手に軽いノリの男性に比べると、相当しっかりして見えた。それだけでも、睦月にとって好感度は高く、最初から悪い印象など、どこにもなかったのである。
睦月と森山、お互いに惹かれるものは違っていたが、求めているものが相手にあることに気付いたのが、うまく付き合ってこれた一番の理由だと思っている。
「相手を好きになるのに、理由なんているのかしら?」
と言っていた友達がいたが、睦月にとっても、森山にとっても、理由というのは、お互いの気持ちの上で、重要なものだったに違いない。
「あなたの記憶は半分、喪失してしまっています」
と、医者から言われた睦月は、
――自分が森山を好きになった本当の理由について、忘れてしまったのではないか?
と、感じるようになった。
自分の中では漠然としたものが残ってはいるが、本当は、もっと確固たるものが存在したのではないかと思ったのだ。
そのことに気付いてみると、森山の態度がどこかクールであることが分かってきた。
交通事故に遭って、入院している自分の彼女、これから結婚を考えている女性に対して、もう少し気を遣ってもいいように思えたのだが、気を遣うということに対してあまりいいイメージを持っていなかったのは睦月も同じことで、そんな自分が、どうして相手が気を遣ってくれないことに違和感を感じなけれなならないのか、分からなかった。
交通事故から目が覚めて、森山が言った言葉、
「年が明けたら、結婚しようと話していたのに」
という言葉を最初は間に受けていたが、次第に疑問に思えてきた。自分が間に受けたことに対して、森山はおかしな素振りを見せなかった。まるで、本当にそのことを最初から信じたのだということに疑問はなかったのだろうか。医者から記憶の半分が喪失していると聞かされて、喪失した部分が、この言葉だったのだということをまるで最初から分かっていたかのようだった。
睦月は成人式の日を迎えた頃には、足の骨折以外では、すっかり身体の方はよくなっていて、
「いつでも退院しても、構わない」
と、医者から言われていた。
ただ、通院だけは続けなければいけないようで、
「一週間に、二回ほど通院してください」
と言われた。
成人式を終えた後には、今度は卒業式も迫っている。考えてみれば、結構多忙ではないだろうか。それを分かっているはずなのに、本当に結婚など考えていたのかと思うと、現実と結婚とのどちらが自分にとっての本当のことなのか、分からなくなっていた。
成人式の三日前に退院した睦月は、約一か月ぶりに自分の部屋に帰ってきた。その日はちょうど森山が会社の出張で一緒に立ち合ってくれなかったのは寂しかったが、
「すまない。この埋め合わせはちゃんとするから」
と言って、恐縮しながら、出張に出かけていった森山の後ろ姿を見ていると、まだ学生である自分が、社会人の彼に無理なことは言えないということを感じるのだった。
森山の背中はいつ見ても堂々としていた。他のサラリーマンとはどこかが違う。社会の中の一コマとしてのサラリーマンばかりを想像していたからか、彼の後ろ姿に感じる風格は、決して社会の中の一コマに過ぎないわけではないことを教えてくれているかのようだった。
――言葉にするには難しいが、どうして彼のことを好きになったのか、分かる気がする――