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記憶の十字架

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「睦月さんが、子供の頃に遭ったという交通事故について、先生はどんな事故だったのか知らないけど、優しいおじさんを思い出したというのは、きっと睦月さんの中で、その時の罪悪感が残っていて、残っている悪かったという気持ちが、最初に強い印象として思い出させるんでしょうね」
 それだけ、記憶がハッキリしているものは、相当昔のことでも、まるで昨日のことのように思い出すことができるようになっていたのかも知れない。だが、その時の睦月には、自分の中にある時系列が、微妙に狂ってきていることに気付いていなかったのだ。
 睦月は、記憶を失ったことで自分の思惑を忘れてしまっていたのだが、忘れてしまった記憶の中に、
――誰かに対して隠しておかなければいけない――
 ということがあった。
 そのことは次第に思い出して行くのだが、肝心のこととなると、思い出すことができない。
 誰に対してかということになると、考えられるのは森山に対してだった。一体どうして森山に話せない秘密にしなければならないものがあるのか、今では不思議で仕方がなかったが、自分の意識の中では、さほど大げさなものではなく、
――内緒にしている方がいい――
 という程度のものだったような気がする。
 しかし、記憶を失って、失った中に、その内緒にしていることがあるというのは気になるものだ。思い出そうとすると、頭痛が襲ってくるのだが、それは、自分の中で、
――思い出してはいけないものなのだ――
 という意識を持っているからに違いない。
 ただ、そんな素振りは相手に伝わるもので、どうやら森山が何かに気付き始めたことを悟った睦月は、自分の方から森山にいろいろ話を持っていき、自分の記憶を失くしている部分のいくつかでも話してもらおうとしたのだ。その話を聞いているうちに、自分が何を隠そうとしていたのかを探る糸口が見つかるのではないかと考えたからだ。
 かといって、森山とのことは、ほとんど覚えていて、頭の中ではすべてが繋がっていた。何かを隠そうとしていたとしても、その糸口になるようなものは、そう簡単には見つからないだろう。一つ気になることは、
――自分が、どうして彼と結婚しようとしていたのか?
 一番肝心なことのはずなのだが、どうしても思い出さなければいけないことだという意識はない。
――彼と一緒にいれればそれでいい――
 という思いが今の意識の中では一番強い。
 まさか、それが結婚を思い立った最大の理由だとは思えない。どこかに結婚しようという意識があったからなのだろうが、その意識を司っている「意志」が、睦月には思い出せないのだ。
――そんなことってあるのかしら?
 理由もなしに結婚しようとしている自分に、睦月は納得しているのだ。それはやはり潜在意識の中に結婚するのに納得するだけの何かが潜んでいるのだろうが、それがあるというだけで、それがどんなものなのか分からなくても納得してしまう自分が怖かった。
――私って、自己暗示に掛かったのかしら?
 自己暗示でもなければ、そう簡単に納得できない。
――結婚するまでに思い出せるという確証のようなものが潜在意識の中にあるのかしら?
 としか思えなかった。
――結婚するのに、理由なんか必要なのかしら?
 という大胆な考えが頭を過ぎったりもしたが、ひょっとすると、記憶を半分失ったのは、交通事故が原因ではなく、
――忘れてしまいたいものがあったからではないか?
 とも考えられた。
 交通事故に遭ったというのは、記憶を失うという過程の中では、ただの通過点のようなものだというだけのことだったのではないだろうか。
 子供の頃に遭った交通事故では、逆に記憶力がよくなったような気がした。もちろん、気のせいなのだろうが、まわりから、
「お前は、あの時から、賢くなったな」
 と、言われるようになり、本当なら不謹慎なのだろうが、そういうことにはあまり気を遣わない睦月としても、
――そうか、あの時から私は賢くなったのか――
 と、却って自分でその気になってみたりもしたものだ。
 確かに、交通事故に遭ってから後のことは、結構覚えている。交通事故に遭う前の自分が、何を考え、どのようになりたいと思っていたかなど、まったく思い出せない。考えてみれば、何も考えていなかった子供が、急に考えるようになる時期というのはあるもので、それが偶然、交通事故の時だっただけなのかも知れない。
 子供心に睦月は、自分があまり勉強ができないのは、好きになれないからだけではないことが分かっていた。勉強していても理解できない。理解しようとしないわけではないのに、理解できないのだ。
――私って、バカなんだわ――
 と、勝手に思いこんでいた。理解できなければ、まわりからいくら勉強しろと言われても、できるはずがない。していても、それはポーズを取っているだけで、本当に分かっているわけではない。それでも、机に座って勉強しているふりさえしていれば何も言われないし、その後も、何かと過ごしやすかった。
 そんな睦月が交通事故に遭ってからというもの、あまり表で遊ばなくなった。怖いというのもあったが、それ以上に、一度交通事故に遭っていると、まわりが変な気の遣い方をして、自分を本気で相手してくれていないのが分かるのだ。
 それで面白いわけはない。
 仕方がないので、本を読むようになったのだが、結構本を読むのは楽しかった。
 本を読み始めたのは小学四年生の頃だったが、子供向けのミステリーがあり、密かなブームだった時代があった。本来なら、中学生くらいがちょうどいい読者年齢なのだろうが、小学生でも読める内容になっていて、謎解きがメインなのだが、その中にオカルトな部分もあって、ピリリと辛さが利いていて、結構楽しかった。
 ミステリーを読むことで、友達もできた。
 表で遊ぶことがなくなってからは、いつも一人だったのだが、図書館に出かけて本を物色していると、同じクラスの女の子を見かけたことで、お互いにビックリしたものだった。
 彼女も、学校では目立たないタイプの女の子で、眼鏡を掛けたお下げ髪、まさしく地味っ子と言ってもいいだろう。
 それでも、彼女は結構いろいろな本を読破していて、学校では信じられないほどの饒舌ぶりだった。放っておけば、いつまでも話をしているような雰囲気で、それでもどこで声を掛けていいのか分からずに、結構聞き続けていた。
 苦痛ではないと言えばウソになるが、それなりに話を聞いていて面白かった。少なくとも図書館で一人、本を物色しているよりも楽しかった。本もいろいろ紹介してくれて、彼女が紹介してくれる本に間違いはなかった。
 ただ、彼女とは本を読んでいても、目の付け所が少し違っていた。どちらが正しいのか?
 いや、そもそも本の解釈に正しいも、正しくないもあるのだろうか?
 そう考えてみると、お互いに同じ本を読んで、感想が違っているのは、結構楽しいものだった。
 本を読むようになってから、自分でも気付かないうちに勉強が面白くなっていた。それは本を読むことで頭が柔軟になってきたのか、教えられた内容が分かるようになっていた。最初は、
――先生の教え方が悪いのよ――
作品名:記憶の十字架 作家名:森本晃次