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記憶の十字架

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 とユキが感じるかも知れないとも思った。
 もちろん、逃げるなどという感覚はない。自分の妹になってほしいだけなのだが、妹という意味をユキが違う意識で持っていたとすれば、ユキから見た森山の結婚というのは、
――自分から逃げることだ――
 という意識に結びついたとしても、それは無理もないことだろう。
 病室で入院していた睦月を見た時、
――睦月は記憶を失っているのではないか?
 と、医者に言われる前に気が付いた。
 だから、
「年が明けたら結婚しよう」
 と言ったと、睦月に告げた。
 本当は、
「二十歳になったら」
 だったはずなのに、咄嗟のウソは、睦月の記憶喪失を確かめる思いもあったのだ。
 森山はその時の睦月の態度を見て、戸惑ってしまった。
 もし、本当に記憶を失っているのであれば、いきなり知らない人から結婚の話をされて、ビックリするはずである。逆に記憶を失っていないのであれば、森山の言葉に疑念を感じ、それ以降の森山に対して、ずっと疑惑の目を向けるはずである。本当に結婚を考えている人が相手だけに中途半端な意識を持つことなどできないはずだからである。
 それなのに、睦月は森山の言葉を信じているようだった。少なくとも、森山に対して疑念を持っている様子はない。疑念を持つということは、それだけ相手を認識しているということでもあるだけに、森山の戸惑いは、無理のないことだった。
――どういうことなんだ?
 中途半端な気持ちでカマを掛けたわけではなかったが、この展開は想定外だった。それだけに、どう対処していいか分からない。その時の森山は、睦月に対して、相当大きな疑念を抱いたはずだ。しかし、そのことに対して、正面から向き合っているはずの睦月は分かっていないのか、森山を訝しいとは思っていないようだ。
 記憶を中途半端にだが、失っているとしても、森山に対しての意識は残っているはずだ。話をしていて、森山との思い出は、失ったであろう記憶の中にはなかった。話をしても通じている。ただ、思い出を語り合っていると言っても、そこに感動はない。時系列を通じて思い出されていくだけだった。
 睦月の中では、その時、自分のことだけで精一杯だったということに、森山は気付かなかった。そのことを気付いてあげられない時点で、本当に結婚を考えていたのかということに、疑念が生じるはずである。
 もし、睦月が交通事故に遭って、記憶の半分を失うという事態に陥らなくとも、この結婚は、
――結婚前に別れることになるだろう――
 ということを、分かっていたような気がした。
 だからと言って、ユキの元に戻ってきたわけではない。ユキが持っている姉へのわだかまり、それが森山を睦月との結婚を思い止まらせたのだとすれば、ユキは森山にとって、どんな存在だというのだろう。

 睦月の看護をしている看護婦の敦美、彼女はユキの姉であった。
 睦月の看護をするようになったのが本当に偶然なのかどうか、ハッキリ分からない。だが、偶然がこの世に点在しているのだとすれば、可能性の低いところでの偶然が、働いたのかも知れない。
 敦美は、睦月の中にユキを見た。
 ユキが自分を恨んでいるということをその時知った。
 敦美は、高校生の時、付き合っていた彼氏がいたのだが、相手は敦美の初めての相手だった。
 彼は敦美に対しては優しかったが、他の人に対して、異常なほど敵対心を抱いていた。つまり、自分が信じられる人以外は、まわりすべてが敵だったのだ。
 彼は、当時大学生、中学時代に担任の女教師から、溺愛されていた。担任の女教師が美少年趣味という異常性欲を持っていたことで、そのターゲットに選ばれたのが、彼だったのだ。
 だが、担任女教師は飽きっぽい性格で、散々彼を食い尽くした後に、アッサリと他の生徒に乗り換えた。彼女の被害者は、結構いたようで、そういう意味では、彼は可愛そうであった。
 色白の優男っぽい彼は、いかにも肉食女子には、格好のターゲットだった。それでも大学生になる頃には、たくましさが生まれていて、結構女の子からモテていた。
 しかし、彼は過去の経験から、
――女性に好かれるよりも、自分が蹂躙してみたい――
 と思うようになっていた。それだけ女教師から捨てられたことがトラウマとなっていたに違いない。
 そんな彼の本性を知る由もない敦美だったが、彼は敦美が従順なのをいいことに、好き放題していた。
 敦美と愛し合っているところを、わざと妹のユキに見せつけてみたり、敦美を使って、性欲のはけ口を思いのままにしていた時期があった。敦美は、まさか二人が愛し合っているところを妹に見られたなど知るはずもない。その光景を見せつけられたユキは、姉を信じられなくなり、相手がまだ小学生の自分に手を出すことに恐怖を抱きながら、抗うことができなかった自分に対しても、嫌悪を感じていた。ただの悪戯であっても、重大な犯罪であった。
 しかし、この嫌悪にしても、元々は姉が蒔いた種である。そのことを分かっているだけに、それでも相手を信じて付き添っている姉をバカだと思いながら、
――どうして自分だけがこんな目に遭わなければいけないのか――
 という理不尽さに黙って耐えていた。
 しかし、男は姉に飽きがきたようだ。しょせん、異常性欲だけの男なので、気持ちの話などできるはずもない。
 男としての本能だけで生きている男に、女の感情が伝わるわけもない。もし、話をしたとしても、
「お前だって、承知の上でのことだろう」
 と、言われるに決まっている。
 言われてしまえば、我に返って、こんな男に愛想を尽かすのだろうが、姉はそこまで勇気があるわけではない。
 結局姉はこの男との交際に、
――寂しい――
 という感情を解消したいがためだけに付き合っていたのだ。そういう意味では、お互いにどっちもどっちと言えるだろう。
 ただ、そんな関係に巻き込まれた方は溜まったものではない。姉に対してのトラウマから、憎しみが生まれても、それは当然のことではないだろうか。
 男はしばらくしてから、本当の性犯罪に手を染めることになり、警察に逮捕された。その時になって、やっと敦美も目を覚ましたのか。目が覚めてしまうと、元々勘の鋭い娘だっただけに、まわりが自分を見る目の恐ろしさを、初めて実感させられた。そして、その視線の一番強いのが自分の妹であることに気付くと、愕然となったのだ。
「どうしたの? ユキ」
 ユキは答えない。答えない代わりに浴びせる視線の鋭さは、さらに増していき、ついには、二人の間の溝は修復できないまでになっていった。
 敦美はそれから、ユキに対して何も言えなくなってしまった。ユキも敦美だけではなく、しばらくは、まわりの人と何も喋れなくなった。しかし、時間が経てば少しは和らいでくるもので、そんな頃に出会ったのが、森山だった。
 その頃のユキの気持ちを和らげるのは、兄のような存在だった。男に対して、免疫ができていなかったはずなので、森山に対しても最初は抵抗があった。しかし、今まで何度も見てきた夢に出てきたのは、
――いつも優しい兄――
 だったのだ。
作品名:記憶の十字架 作家名:森本晃次