記憶の十字架
そこで、医者の言葉が少し詰まった。
「えっ?」
睦月は少し不安に感じ、喉が詰まってしまう感覚に陥った。
少しして、医者が続けた。
「あなたの中にある、思い出したくないと思っている記憶を、嫌でも思い知らされることになる……」
それは、まるで死の宣告を受けたかのように感じた。
――そもそもそんなものが自分の中にあるのだろうか?
とも思ったが、考えてみれば、誰にだって、思い出したくもないことの一つや二つ存在しているというものだろう。しかし、
――記憶喪失になってまで忘れてしまいたいと思うようなことが、自分の中に果たしてあるのだろうか?
という思いを睦月は抱いた。
それは、医者と二人きりでの面談を望む前に覚悟していた一番辛い思いをするのではないかと思っていた一つであった。
だが、ハッキリと言われてしまうと、却って開き直れるものである。
――言ってくれた方が、スッキリするということもあるというものだわ――
医者もそんな睦月に気付いたのか、
「とにかく、まずは記憶を失った部分があるということを意識した上で、焦らずに前を向いていくという気持ちになることですね」
この言葉は、一般的に医者が患者にいう、「マニュアル的」な言い方であった。しかし、この時睦月が感じたのは、
――この先生の言葉なら信じてもいいかも知れないわ――
ということだった。
それまでに睦月は自分の考えていることを人から看破されたことはあまりなかった。しかも相手が医者というのも特別な思いだった。
あまり医者を信じられないと思っていたからだ。病気になって病院に行っても、自分が思っているような的確な治療をしてくれるわけでもなく、やたら投薬が多く、
――患者を何かの品物のようにしか思っていない態度には腹が立つ――
としか思っていなかった。
だが、交通事故で入院した病院で診てくれている医者には、今までの医者とは違うものを感じていた。
それなのに、自分についてくれた看護婦の敦美は、自分が記憶を失っているということを信じていないように見えるのは、遺憾だった。
――彼女は医者の診断を信じていないのかしら?
もっとも、睦月も医者と面談して話を聞くまでは、まったく信じていなかった。しかし、ここまで理論的に、しかも、睦月が聞きたいことを的確に指摘してくれたという、まるで、
――痒い所に手が届く――
というような親切丁寧な話し方に感服するとともに、信じないわけにはいかなくなっていたのだ。
そんな話を聞いていない敦美が信じられないと思うのも無理のないことだが、せっかく患者の自分が信じているのだから、病院側の看護婦である敦美が信じてくれていないというのは、困ったものだと思っていた。
敦美は、睦月に対して医者がここまで話をしているということを知らない。確かにここの先生は、看護婦にも言わずに、直接患者に話をすることが多いようだが、看護婦とすれば、何も知らずにいるのは、きついことだ。
「患者に直接対しているのは私たちなのよ」
と言いたいのも当然のことだった。
しかし、敦美はそのことも分かっている。そして、
――きっと先生のことだから、今回も私に何も言わずに、患者とお話をしたに違いない――
と感じていた。
その思いは間違いのないことだったが、今回はその思いが当たっていないことを本当に望んでいたのだった。
敦美は、それでも睦月と向き合わなけばならない。睦月が自分に対して疑念を抱いていることも分かっていた。
――対応しにくい患者さんだわ――
という思いだけではなく、
――何とか、誤解を解きたいわ――
と感じていたのも事実である。
――どうせ少しすれば退院していくのだから、別に誤解されたままであっても構わない――
と、今までなら感じていた。
だが、睦月に対してだけは違っていた。
――なぜなのかしら? 彼女に対しては誤解を抱かれたまま退院されたくない――
と思うようになっていた。
しかし、彼女との間に存在する壁は、自分で考えているよりも、少し厚いような気がする。いかにして突破すればいいのか考えていたが、それは、自分だけの考えではどうにもならないことだった。ただ、どうして自分が睦月に対してここまで特別な思いを抱くのか、自分でも分からないことに、少し苛立ちを覚えた敦美だった。
ただ、敦美が興味を持ったのは、睦月が失った記憶にではなく、今の睦月の記憶や意識に対してだった。
いくら自覚がないとはいえ、自分の中の記憶が失われたということであれば、もう少しうろたえてもよさそうなのだが、睦月を見ていて、うろたえている様子を伺うことはできない。
――睦月という女性は敦美が思っているよりも、しっかりしたところがあるのかも知れない――
そう思ったが、睦月は敦美に対して、何か疑念を感じていることを、知っていた。しかし、それが記憶を失っているということへの疑念であることまでは知らなかった。睦月は敦美に対して感じている疑念はそれだけだったので、今まで入院などしたことのない睦月は、精神的に不安に感じていたのだ。
睦月とすれば、不本意でありながらも、入院中は、敦美を頼るしかないと思っていた。敦美が睦月に対してしっかりしたところがあるという感覚を抱いているなど想像もしていなかった。二人は、互いのカギを掛け間違えているようで、逆に一度カギが合ってしまえば、話が通じ合える仲ではないかと感じたのは、時々見舞いに来ていた森山だったのだ。
森山は、二人の感覚の決定的な違いについて感覚的にだが分かっていた。
記憶喪失について疑いを持っている敦美と、それを信じていないというのを敦美が感じていると思っている睦月、その違いを分かっているのは、森山だけである。
どうして森山がそのことに気付いたのかというと、客観的な目で見ることに、他の人にはない鋭さを森山が持っているということと、初めて見るはずの敦美という看護婦に、
――実は以前から知っていたのではないか――
という思いを感じたからだ。
森山は、今まで女性とほとんど付き合ったことはない。睦月だけだというわけではないのだが、初めての彼女ができた時も、実は睦月とは知り合っていた。なぜかその頃、森山も睦月もお互いに恋人として意識していなかったわけなのだが、原因があるとすれば、森山の方なのかも知れない。
森山は、睦月と付き合いながらも、妹という意識を持って、ユキと接している。睦月にもユキの存在を話しているが、それは、
――睦月にユキのことを話しても、絶対に分かってくれる――
という意識があるからだ。
なぜなら、
――自分が他の女性と付き合った時も、睦月は分かってくれた――
という意識があるからだ。
その時は、
――それこそ、自分の役得だ――
という自惚れを抱いていた。
もちろん、睦月からは全幅の信頼を得ているという意識があるからで、睦月という女性はしっかりしているように見えて、頼れる誰かがそばにいないといけないことを自分で意識しているというのを感じているのが森山だけだということを自分で意識しているからだった。