記憶の十字架
もちろん、小学生のユキに、姉が男を連れ込んで何をしていたのか分からなかった。しかし、家族がいないことをいいことに、彼氏がいないと思われていた姉が、男を連れ込んだのだ。しかも、こっそり覗いてみると、、普段見せたことのないような、甘えた表情をその男性に向けていたのだ。
その男を帰り際にチラッと見たが、どうにも好きになれないタイプの男で、
――どうしてこんな男に――
と思ったユキだった。
そろそろ異性を意識し始めるくらいになっていたユキにとって、姉の行動と、姉のその時の顔、さらには、相手の男の不気味なほどに厭らしい表情。どれを取っても、トラウマになりかねなかった。
姉も男も、まさかユキが見ていたなど知らなかっただろう。その時姉は、男と一緒に家を留守にしたからだ。半時ほどして帰ってきたが、その時はすでにいつもの姉に表情が変わっていた。
そのことも、ユキには不思議だった。
――そんなに簡単に表情を変えられるものなのか?
と感じたからだった。
ただ、姉の秘密を知ったと言っても、すぐにユキの中で過去にことになっていた。別に誰にも話すつもりもなかったし、姉に対し優位に立とうなどと思ったわけでもない。しかし、姉から、
「あなたが一番心配」
と言われ、小学生の時に目撃した時の気持ちが少しよみがえってきた。
――ひょっとして、姉に対して、もっと忘れていることがあるのかも知れないわ――
と思った。
その時、一緒に感じたのが、
――自分の中に、自分ではない記憶が同居している――
ということだった。
忘れていたことを思い出すということは、あまり今まで考えていなかった自分の深層心理や潜在意識について考えるということであり、その時に、意識していなかった記憶について、意識してしまったからだろう。
姉の秘密を忘れようとしていたことを、今まで意識もしていなかったが、それは記憶を呼び起こすことをしなかったことに繋がってくるのだ。
――違う人の記憶があるから、姉のことを忘れようと思ったのか、姉のことを忘れようと思ったから、違う人の記憶を意識することがなかったのか分からないが、この二つは、密接に繋がっているのかも知れないわ――
と思うようになっていた。
三姉妹の真ん中というのは、ある意味、いろいろなことを考えるものだ。ただ、年上の人を見上げるというのは、同じ年齢差の年下を見下げるのに比べると、結構遠く感じるものだ。未知の世界である未来と、歩んできた過去を見た時、どちらが遠く感じるかということを考えれば、おのずと見えてくるものだ。そういう意味で姉との年齢が離れすぎていると、雲の上の存在のようで、意識するのは姉よりも妹の方だった。
ただ、妹は自分とは正反対の性格であり、比較するのも難しいと思えてくると、次第にいろいろ考えることがナンセンスに感じられるようになってきた。高校生の頃から自分を孤独だと思い始めたが、それは姉妹に対して、自分の後ろに下がった感覚が芽生えてきたからだ。
――森山さんと一緒にいると、孤独を忘れられる――
という思いがあったが、それよりも余計に姉妹たちと一線を画すことになれたことの方が嬉しかった。
――私はお姉ちゃんとも、妹とも違うんだ――
と感じることが、実は自分から意識しているということに繋がっているのだが、それでも構わないと思うようになっていた。
ユキは、自分のことを二重人格だと思ったことはなかった。どちらかというと、二重人格というのなら、姉の方が二重人格っぽい気がしてきていた。
そう思った理由は、
――お姉ちゃんの表情で、何を考えているか分からないけれど、表情を一つしか感じない――
というところから来ていた。
裏を返せば、自分でも二重人格を自覚しているという気持ちの表れが、人に悟らせないようにするための作為が感じられると言えるのではないだろうか。
姉の表情を見ていて、
――彼女は二重人格だ――
などと思う人は稀ではないだろうか。
もし分かるとすれば、それはいつも姉を見ている人か、あるいは、姉に対して反発心を抱いていて、その意識から見た角度で、違う人が写って見えるのかも知れない。両極端な性格の人でなければ、姉を看破することはできないだろう。
ユキはどちらかというと、後者であろう。反発心よりもさらに強い、敵意とまではいかないほどの感情が、ユキの目には浮かんでいることだろう。
そんな姉を見ているせいか、それとも姉妹というのはそういうものなのか、こともあろうにある日、森山から、
「君は、お姉さんに似たところがあるよね」
と言われたことがあった。
他の人からであれば、軽く受け流すこともできたが、信頼を置いている森山にそう言われると、ショック以外の何物でもない。
本当であれば、そこまで自分のことをよく観察してくれていると喜ぶべきところなのだろうが、反発心しか持っていない姉に似ているなど、否定する以外に、どうすればいいというのだろう。
「そ、そんな似てなんかいないわよ」
と、焦りながら、必死に否定する。
「何をそんなにうろたえているんだい?」
焦りは感じていたが、うろたえているつもりなど微塵もなかったのに、どうしてそんな言われ方をしなければいけないのか、自分が情けなくなった。
しかも、それを言ったのが森山だということで、言葉自体に対してよりも、
――森山さんに言われた――
という方がかなりのショックであった。
森山に対して、
――この人はやっぱり他人でしかないんだわ――
と、感じたのが後にも先にもその時だけだった。
そう感じさせた相手が姉という肉親だということも皮肉なことであった。ユキはそんな森山に対して、
――私はこの人には敵わない――
という別の感情も浮かんできた。彼を他人として意識したことで派生した考えだったのだが、森山への信頼感が薄れたわけではない。
――しょせん、この人の手の平の上で踊らされているだけなのかも知れない――
と感じたのは、すべてを分かっていて、自分が承服できないことも百も承知で言ったのだろうと思ったことだ。まわりから、森山が、
「鈍感な人だ」
と言われているのは知っていた。しかし、それは自分に限ってはありえないことだった。それだけユキは、全幅の信頼を置いていた。ただ、この思いが、自分の本当の性格から来ているものではないということに気付いたのは、森山が睦月と付き合っているということを知ってからのことだった。
最初は睦月のことを何もユキには言わなかった。ユキがショックを受けると思ったからだろうか?
いや、そうではない。時間が経てば経つほど言わなければ、傷が大きくなることは森山にも分かっていた。いう機会を逃してしまったというのも理由の一つだったが、
――ユキに話すと会わなければいけなくなるだろう。だが、それは何か怖い気がして仕方がない――
というのが、森山の本音だった。
森山は、睦月と知り合って初めて、
――ユキの中に誰かいるような気がしていたけど、それが睦月のような気がして仕方がない――