記憶の十字架
初めて人の死に立ち合うことになったが、実感が湧くわけもなく、皆神妙な態度の中でなぜかワクワクした気持ちになったのは、親戚や知り合いが、たくさん来てくれたからだった。こんなことは後にも先にもその時限り、後は冷たいものだ。それでも、その時の森山はワクワクしていた。
妹が死んだということよりも、妹がこの世に存在していたということすら、自分が成長するにつれて、忘れていった。家では妹のことを口にするのはタブーのようになり、一時期母親は、まるで腫れものに障るような感じで、父親は接していた。子供から見ても、
――妹のことを話してはいけないんだ――
と思っているうちに、いつの間にか、その存在すら忘れてしまっていたのだろう。
だが、妹がこの世に存在したことは確かで、今までに夢の中に何度か妹が出てきたような気がする。目が覚めると、
――夢を見た――
という意識だけで、それが妹だったのかどうかは定かではない。
しかし、曖昧な夢ほど妹が出てきたのではないかという思いが、ほぼ自分の中で確定しているかのようだ。やはり、本当に忘れるということなど不可能なことなのだろう。
「お兄ちゃん、寒いよ」
顔もハッキリしない妹が夢の中で震えている。そんなイメージを勝手に抱いていたのだが、イメージを抱けるということは、かなりの確率で、夢を見たということだろう。顔がのっぺらぼうになっているのは気持ち悪いが、やはりそれは自分が忘れてしまおうとしている意識がそうさせているのであって、
――本当は妹がほしい――
という意識があっても、それは死んでしまった妹ではありえないということが分かっているだけに、自分の中でジレンマに押されてしまっていたのだ。
森山は自分の中でイメージしていた「妹像」があった。妹というと、幼稚園に上がる前の幼女しかイメージにないため、勝手に自分の中で作り上げたものだったが、
――自分で勝手に作り上げたイメージに似合う女の子など、そう簡単にいるはずもない――
と思っていた。
もし、いたとすれば、
――妹が生まれ変わったのかも知れない――
と感じるに違いない。
ただ、森山がイメージしている「妹像」が自分が成長してくるにつれて変わってくるのを感じていた。
――自分の成長に比例して、イメージも成長しているんだ――
と感じたからだ。
森山が、ユキに出会ったのは、森山が高校生になった頃だった。それまでは学校が近かったので、自転車通学していたが、高校になると電車で数駅は行かなければいけないところなので、電車通学になった。その時、電車で見かけたのがユキだったのだ。
当時ユキは中学二年生。中学生で電車通学というのは、公立ではないのだろう。制服を見ていると、中高一貫教育の女子校中等部の生徒だった。自分の中学時代と、女子校というイメージを思い浮かべて、どれほどのギャップがあるかということを感じただけで、森山はユキの存在が、自分の中でどんどん大きくなってくるのを感じていた。
最初は、
――彼女になってくれたらいいのに――
と思っていた。
その頃はまだ、妹という存在は触れてはならないものだという意識が強かったからで、ユキを見る目も、明らかに遠くから見ているものだった。
しかし、ユキは森山が思っているよりも積極的で明るい女の子だった。
「私、お兄ちゃんがほしいって思ってたの。私のお兄ちゃんになってくれる?」
そう言われた時、森山の中で何かが崩れるのを感じた。
しかも、崩れ落ちるものに対して、後悔の念がまったくなかったのも、この時が初めてだった。今に至るまでも、その時のことを間違っていたなどということは、まったく考えたことがなかった。それまで妹を意識してはいけないと思っていた自分がウソのようだった。
有頂天になっていた森山は、その時、即答したのかどうかすら、覚えていない。
――ちゃんと、口で返事したんだよな――
それすら曖昧だった。
高校生になると、本当なら異性に興味を持つ年齢のはずなので、
「お兄ちゃんになって」
などと言われると、彼女として見ることができないことに対して、もったいないと思うのではないかと思えた。実際に、その頃、彼女がほしくてたまらない時期でもあったはずなのに、妹としてしか見ることができないような複雑な気持ちになっていたはずなのに、どうして有頂天になれたのか、それも不思議だった。
ユキに対して、妹でありながら、異性としても見ていた。本当の妹であれば、ひょっとすると、我慢できなくなっていたかも知れない欲求も、ユキが妹になってくれたことで、我慢できている自分がいた。
――本当なら逆のはずなのに――
それだけ、妹という存在が自分にとって大きなものであったということと、ユキが本当に理想の妹のイメージに嵌っていたということが、森山にとって幸いしたのであっただろう。
森山が、初めて女性と付き合ったのは、睦月と知り合うだいぶ前だったが、その時、ユキの存在が頭の中にあるからなのか、森山はその女性のことを好きになっていたにも関わらず、相手の方から離れて行った。
その理由として、
「あなたは、私の後ろに誰か他の女性を見ているのよ」
と言われた。
森山自身には、青天の霹靂だった。
相手の女性はユキと同じように、積極的な女性で、森山の思っていることを何度も言い当てるほど、森山のことを分かっていた。それだけ相手に優位性があるということで、主導権は完全に相手が握っていたのだ。
だからこそ、別れの時も、ほぼ一方的だった。森山にほとんど何も喋らせない。付き合っている時から、何も言わずとも、気持ちを分かっていてくれたことで、かなり楽な付き合い方をしていた。面倒見のいい女性なので、それでよかったのだ。そんな相手が、
――俺を見限るようなことはないだろう――
と思っていたのも事実で、見限られた時、初めて自分が相手の女性に対して全幅の信頼を置くことで、自己満足に浸っていたことに気付かされた。
しかも、別れの理由がそこにあるわけではなかった。
――俺は、一体誰を見ていたというのだろう?
分かっていた気はした。
しかし、簡単に認めるわけにはいかない。認めてしまえば、これから先、自分には彼女ができないことを自分で自覚してしまうことになるからだ。もし彼女ができたとしても、末路は決まっている。毎回同じ別れを切り出されて、結局それ以上でもそれ以下でもない状況に引きこまれてしまう。
――俺は自分の運命から逃げることができない――
と、感じないわけにはいかなかった。
だが、それでもいいという思いになれたのは、ユキがいてくれたからだ。ユキがいてくれることが自分にとっての癒しになり、慰めにもなった。
付き合っていた女性と別れてきた理由の一番が、
――あなたは私の後ろの誰かを見ている――
ということだったが、その後ろにいる人が、「妹」であることを森山は分かっていた。だが、その妹というのが、幼い頃に死んでしまった自分にとっての本当の妹なのか、それとも、
「私のお兄ちゃんになって」
と言われた時に見せた笑顔を持った、その時のユキだったのか、少なくともそのどちらかであることに違いはない。