記憶の十字架
その女性とどのようにして知り合ったのか覚えていないが、仲良くなるきっかけとなった会話は覚えている。
「あなたは、何か自分に自信がないの?」
「えっ? どういうことだい?」
「だって、あなたの目は私を直視できないでしょう? いつも下を向いたり、私の目を避けるようにして見続けている」
「意識していないけど」
「それが自分に自信が持てない理由なんでしょうね。どうして自信が持てないのか分からないけど、あなたは、決して表に出してはいけないと思っていることを、ギリギリのところで表に出すのを思い止まっているように思えるの」
彼女からそう言われて、彼女を凝視したのを思い出した。
――確かに、彼女のいうように、俺は彼女を今までまともに見たことがなかったな――
それは、自分の中に女性を感じていたことで、女性の目を直視することが恥かしかった。男なら、そんなことで恥かしがるはずはないのだが、やはり、女性というイメージを自分の中に埋め込んでしまったことが影響しているに違いない。
「自信が持てないというよりも、相手に指摘されるのが怖いからなのかも知れない」
「それが自信を持てないことだというのを、あなたは分かっているはずだと思うんだけど、あなたがそれを認めたくないと思っている。だから自信が持てないということを、相手に求めさせたくないのよ。相手にズバリ指摘されると、きっとあなたは、すぐに認めてしまうんでしょうね。あなたはそんな男性なのよ。つまりは、男性の中に女性らしさを持っていて、時々それが表に出てくることで、余計に認めたくない自分を表に出すわけにはいかないのよね」
分かったような口を利く彼女に、何とか反論を試みたかったが、ここまで看破されてしまうと、出てくる言葉は何もない。その時、彼女にその後何と答えたのか覚えていないが、その時を最後に、繋がっている範囲での自分の記憶の中に、
――女性らしさ――
というものは消えていた。
中学時代の自分が、二、三年の時を一気に超えて、その時に降り立ったような感覚だった。それはまるでタイムマシンのような感覚で、二、三年というのは自分の中でなかったものとして、
――まるで昨日のことのようだ――
と感じるようになっていた。
そんな記憶を、きっと自分では「トラウマ」のように思っていたのかも知れない。
実は、最近まで、自分が女性っぽかったということを忘れていたようだ。曖昧な記憶はその前後の記憶がうまく繋がってしまったことで、消えてしまっていた記憶を感じさせなかったに違いない。
女性っぽさというのは、自分の中で、
――忘れたい忌わしい過去――
だったに違いない。
しかし、その過去を何かの拍子に思い出した。それが、自分の付き合っている相手である睦月の記憶が、半分なくなっていることを聞かされた時だった。
「彼女の記憶は、半分失くなっているようなんです。本人に意識があるかどうかは、ハッキリとはしないのですが」
と言われた時だった。
――記憶が半分ない?
それは、まるで自分に対して言われているような気がした。その時まで、自分の記憶がなくなっているなど、想像もしていなかった。ただ、何となく記憶を呼び起こす時、昔に比べて、何か重たい感覚を覚えたからだ。
――頭痛とは少し違うけど、重たいというのは、どういうことなんだろうな?
と、話を聞きながら、森山はその時、自分の世界に入っていた。
医者はその時、
――森山自身が自分の世界に入りこんでいることを知っているのではないか?
と感じていた。
森山のような人をきっと今までにも何人か見てきたに違いない。
――この人を見ていると、睦月さんとどこかダブっているように感じられる――
と感じていたとすれば、森山と睦月の共通点を知っているのは、医者だけではないかと思えてきた。
医者は、二人を見ていて、
――これから、この二人がどうなっていくか、ずっと見てみたい気がする――
という思いに駆られた。それは医者としての好奇心からなのか、それとも、彼自身の人間としての気持ちなのか、すぐには分からなかったが、
――別にどちらかを無理に決める必要もないのではないか?
と思うようになっていた。
医者がそんなことを思っているということを、森山も睦月も知らなかった。それだけ二人は客観的に見ると、興味深い二人だったに違いない。
――森山が睦月と知り合って、付き合うようになったのは、二人の運命なのかも知れない――
医者はそう思っていた。
本当は、医者という立場からも、自分の性格からもあまり「運命」などということを信じる方ではなかったが、時々、無性に信じてみたくなる時がある。そのことをこの医者は自覚していたが、
――どうして、時々無性に思うのだろう?
と考えていた。
まるで何かを我慢していて、張りつめていた糸が切れそうな気がしてくるからなのだが、今まで、そんな患者さんを医者として客観的に見てきたのに、
――自分にもそんなところがあるかも知れない――
と思いながら、そこを意識しないように敢えてしていた。だが、二人を見ていると、まるで我慢しているかのようで、
――必要のない我慢ではないか――
と思うようになると、今まで自分を客観的に見ていたことに今さらながら気付いたことが、
――我慢していたんだ――
という思いを呼び起こすことになっていた。
もちろん、森山も睦月も、自分たちの存在が、医者にそんな思いを抱かせているなどということを知る由もなかった。そういう意味では、睦月も森山も、医者のことを客観的にしか見ていなかったが、先に医者の意識が自分たちに対して主観的に見ているということに気が付いたのは、森山の方だった。
森山は、医者のそんな意識や目を感じたことで、自分が過去の記憶をわざと忘れようとしていたことに気が付いた。
――やはり、わざと忘れようとしたことというのは、まるでメッキのように剥げやすいものなのかも知れないな――
と感じるようになっていた。
睦月の方も、森山の記憶が一部なくなっていることは知らなかったが、
――何となく、彼なら分かっているんじゃないか?
というイメージがあった。
医者から、
「記憶の半分がなくなっている」
と言われても、自分に置き換えてイメージできる人は、そんなにはいないはずだ。同じような経験をした人にしか分からないというのは、当たり前のことであろう。
ただ、睦月には自分の失った記憶を自分の記憶として持っている人が、この世にいるということを実際には知らなかったが、信じられないと思い否定しながらでも、意識せざる負えなくなっていたことが気になっていた。
それは、一度ならずとも、二度までも夢に見たことから始まっていた。
夢というのは、一度ならず二度までも見たという記憶を、果たして持てるかということが、睦月にとって不思議なことであった。
――目が覚めるにしたがって、どんなにセンセーショナルな夢であっても、ほとんどのものは忘れてしまうものだ――
という意識があった。