交わることのない平行線~堂々巡り③~
考えてみれば、人間の歴史とロボットの歴史の深さの違いは歴然としている。特に人型ロボットの開発は一番身近であるが、その分、いろいろな問題を孕んでいる。人間に近いというだけで、どうしても意識しなければならないのは、
「人型ロボットを造るのは、何と言っても人間なのだ」
ということだからである。
義之サイボーグは、自分の成長の早さに耐えることで、一つ大きなものを得とくした。それは人間にとっても、大切なことである「自信」というものである。人に命令されたことを忠実に守るだけであれば、自信というものは存在しない。下手に自信というものを感じてしまうと、命令に服従するだけの自分に、疑問を感じることも考えられるからだ。
ロボットにとって、「自信」は、諸刃の剣のようなものだ。そんなものを義之は「成長」という形で、自分のサイボーグに組み込んだ。
――より人間に近づいた――
と言えるだろう。
人間に近づいたということは、人間と同じような「副作用」も伴う。つまりは、「自信」が生まれれば、そこには必ず「自信喪失」というものが背中合わせに存在していることを伴っていることになる。そこが、諸刃の剣と言われるゆえんであった。
人間自身、存在自体が諸刃の剣なのかも知れない。
そうでなければ、未曾有の大戦争を引き起こしたり、そんな中から、あくなき精神で復興を遂げるのである。義之が自分のサイボーグに「成長機能」を組み込んだというのは、かなりの冒険だったのは間違いない。
ただ、その分、自分の精神をサイボーグの回路にも組み込んである。
――同じ状況に陥れば、自分も同じ行動を取るに違いない――
と、いう思いがある。
自分が、超えるわけにはいかない過去への旅を、義之サイボーグに任せるのも仕方がないだろう。
どうして、自分がサイボーグに任さなければいけないかというと、
――自分の身体は一つしかない――
ということだ。
いくら、出発地点が違っていたとしても、行く先が同じ時代であれば、そこには存在してはいけない自分がいることになる。それは許されないことだ。
義之は、香澄をサイボーグに任せて、自分は沙織に会いに行くことを考えていた。そのために、サイボーグに香澄を任せたのだった。
義之は、サイボーグが香澄の前から姿を消すという行動を取ることを予想していなかった。サイボーグには敢えて最初からいろいろな機能をつけることなく、成長を促す回路をセットするようにしていた。それが確かに災いしてサイボーグを苦しめる結果になってしまったことも、かなり低い確率ではあるが、予想していなかったわけではない。それでも、自分の「分身」として香澄の前に現れることで、二人が惹き合うことは高い確率で予想していることだった。
――でも、どうしてやつは香澄の前から姿を消すような行動を取ったんだ?
成長する彼の回路の中で、自分で納得できない出来事に出会ってしまったのだろうが、それが一体何なのか、なかなか分からなかった。
義之本人がこの時代にやってきた時には、すでに、サイボーグが香澄の前から姿を消した後だった。
「確かに、こちらにやってくる前、やつは香澄のところにいるのを確認できていたはずなのに」
香澄の時代には当然なかったタイムマシン。架空の存在としてSF小説の中でだけでしか確認できないので、誰もが同じものしか想像できなかったはずだ。
同じものといっても、
「形状が同じ」
という意味ではない。
「形状が違っても、用途や性能は同じだ」
という意味である。
過去にしろ、未来にしろ、「タイムトラベル」をすると、その間、トラベラーに時間の意識はない。あっという間に、目的の時間のその場所に到達しているという発想である。つまり、トラベルの間に、その人は一切の時間を費やしているわけではないというものである。
さらに、曖昧なこととしては、その到達地点である。
いわゆるベクトルという意味だが、未来や過去のまったく同じ場所に到達するのだとすると、ちょっと考えれば、
「そこには一体何があるか分からない」
と思うのではないだろうか。
確かに、映画やマンガの世界では、自分のいた時代とまったく違った世界が広がっていて、到達地点は必ず危険のないところになっている。当然そうでなければ、そこから先の話は進展しないからだ。
だが、そんな都合よくいくものだろうか。到達地点を最初から分かっていないのに、まったく違う場所に飛び出すなど自殺行為。危険極まりない暴挙としか言いようがないではないか。
テレビのドキュメンタリーで、探検家が奥深い洞窟に入って行く時、その表情を写そうとすると、探検家よりも先にカメラマンが入って行く必要がある。しかも後ろ向きで歩いているのである。探検家よりも何よりもカメラマンの方がよほど危険ではないか。
タイムマシンの到達点を計算せずにタイムトラベルをするのがどれだけの暴挙かというのは、そう考えれば分かってくる。
だが、SF映画でも中には、そのあたりまで映像化した作品も少なくはない。タイムトラベルという発想は、SFファンで、タイムマシンというものをキチンと理解しようとして見ている人と、子供番組のアニメで、タイムトラベルということをただの「興味」として見る子供の目では、難しい話はタブーである。子供の発想で見ている人が、香澄の時代の人に多いのは、
「子供はアニメを見るが、大人になってSFに興味を持つかどうかは、子供のアニメ人口からすれば、かなり制限されてくる」
と、考えることができるだろう。
義之の時代のアニメでは、タイムマシンに対しての知識をキチンと謳っている。香澄との時代との一番の違いは、
「香澄の時代では架空の想像でしかなかったものが、義之の時代では、実際のものとして存在している」
ということである。
さらに、実際に開発されたタイムマシンは、香澄の時代に想像されていたものとは若干違っている。
違いの一つとして、香澄の時代に考えられていたタイムトラベルの時間は、まったく本人に意識がないために、一瞬にしてタイムトラベルを終えたように思われているが、実は違っている。
もちろん、香澄の時代の科学者の中には、タイムトラベルの理論に近い形の発想をしている人はいた。だが、開発が不可能であれば、それは机上の空論。しかも、もし、理論を解決できるだけのものを開発できたとしても、そこには致命的な欠陥がある。それは、
「タイムトラベラーの生命に危険がある」
ということだった。
要するに、
「タイムトラベルに耐えられるかどうか」
ということである。
タイムマシンの発想は、アインシュタインの「相対性理論」の発想と、宇宙空間での「ワープ航法」という考え方の組み合わせである。
タイムトラベルというのは、要するに「時間短縮」である。
「どれほど短い時間で、たくさんの時間を飛び越えることができるか?」
この発想がタイムマシンだと言えるだろう。そうなると、考えられるのが「相対性理論」である。
「相対性理論」では、
「高速になればなるほど、時間は遅くなる」
という発想である。
作品名:交わることのない平行線~堂々巡り③~ 作家名:森本晃次