交わることのない平行線~堂々巡り③~
だが、色彩感覚と遠近感が分かったからといって、それが合っているかどうか、答えがどこかにあるわけではない。むしろ、答えはどこにもないような気がする。そういう意味では、他の人の絵にはいざ知らず、自分の絵に色彩感覚と遠近感が分かるというのも、おかしな話に思えてきた。
「あくまでも感覚であって、直感であっても、時間を掛けて感じることであっても、感じることができれば、それがその人の『感性』だ」
という話を聞いたことがあった。
それを思い出すと、自分が絵画について行き詰ったことも納得できた。
それは、一度は乗り越えなければならない一つの道だったのかも知れない。人はそれをスランプと呼ぶのかも知れないけど、
「スランプなんて格好のいいものじゃないわ。自分に自信を持てない人に、スランプなんて存在しない」
と、言いきったことがあった。
相手は絵画の先生だったが、
「まあ、そんなに深く考える必要なんてないのよ」
と、言われたが、その時の先生の顔が、小学生の時に感じた母親に似ていた。
――先生と言いながらも、しょせん、そんなもんなんだ――
と、感じると、急に自分が先生になってみたいと思うようになった。
実は、自分がどうして先生になろうと思ったのかという感覚を、香澄は忘れていた。母親への意識が強すぎることで、母親への何かの反発から、先生になろうという選択肢が浮上してきたと思っていたが、まったく違うとは言い難いが、忘れてしまうくらい、意識が薄かったのかも知れない。
母親に対しての疑問と、先生に対しての疑問。本来であれば、
――自分の成長の背中を押してくれる人たち――
であるはずの人たちを、香澄は信用することができないのだ。他の人を信用しろという方が無理があるというものだ。
香澄にとって、他人との優位性を人との接し方の第一条件に掲げたのも、そんなまわりへの不信感が招いたものだ。香澄は、その意識を持っている。持っているだけに、
――自分で身につけたものではなく、勝手にまわりが意識させた――
という性格だと思っていた。
これは香澄の中で、大きな矛盾を含んでいることに、ずっと気付かなかった。気付かなかったことが、香澄を長い間、
――自分で意識していない「堂々巡り」――
を繰り返させていることになったのだ。
矛盾というのは、他人を信用できない香澄の肝心な性格が、
――他人によって自分の意図しないところで作り出されたもの――
だということになるからだ。
香澄は、すぐには意識していなかった矛盾だったが、分かってくると、
――もう、これ以上、人のことで悩みたくはない――
と思うようになった。
そうなると、他人との境界線を作ることを考えるようになった。
それが、「結界」であればいいのだが、そんなものまで作れるほど、自分に強さがないことは分かっている。
まず手始めに考えたのは、
――相手に対して、優位性を持つこと――
だったのだ。
優位性というのは、一つではない。
たとえば、同じものを目指しているのであれば、必ず自分が先にいるということ、そして、絶えず後ろから見つめられる立場にいるということが一つの優位性だと考える。
また、まったく違うものを目指しているのであれば、あくまでも、相手に対して毅然とした態度を取り、目指しているものが目の前に迫っていることを相手に示唆することも自分にとっての優位性の一つだと考えていた。
優位性がいずれは、「結界」になるものだと、香澄は考えていた。
実は、香澄は他人に対しての優位性をあまり好きではなかった。
まわりを信じられないことから生まれた発想である「優位性」、しかし、本当は、他人との「結界」を築くことが最終目的だと思っているので、そのステップアップのために必要不可欠なものが、相手に対しての優位性だと思っていた。
だが、「結界」を作るというのは容易なことではない。
そもそも「結界」と呼んでいるものがどれほどのものなのか、段階があるような気がして仕方がない。こちらからは相手に近づくことができるが、決して向こうからこちらに入ってくることのできないものが「結界」だと思っている。
義之サイボーグと出会った時の香澄は、どれほど自分の中で「結界」ができていたのか分からない。だが、彼が感じたのは、
――他の人にはない「結界」のようなものを感じる――
というものだった。
だが、それは一瞬のことだった。すぐに香澄は彼に対して心を開いた。人間のように、「錯覚だったのかな?」
と感じながらも、どこか気になっていることはない。それは、人間が自分に自信がないからで、サイボーグは、自分が錯覚だと思えば、その感覚を信じるように設計されている。だから、香澄に対して、
「錯覚だ」
と感じたら、錯覚として、それ以上は考えないようになっていた。
義之サイボーグが、香澄に対して感じた「結界」のようなものは、あくまでも人間に対してのもので、自分に対しての結界ではないことが分かると、自分だけを特別の目で見てくれることに喜びのようなものを覚えた。
それも、実は紙一重だった。
彼の成長がもう少し早ければ、自分にだけ特別だという意識が、
――わがままな性格を押し出している――
ということが分かったかも知れない。
また、逆に遅ければ、自分にだけ特別だという意識すら感じなかったに違いない。ちょうど波長が合う流れに、お互いの意識が乗ったのかも知れない。
彼の成長は、人間の成長に比べると、何百倍、何千倍という単位のものだ。もちろん、限界もある。ある程度まで成長してくると、途中でトーンダウンして、限界の一歩手前で、ちょうどよく着地できるように設計してあった。ただ、成長の過程でのスピードは、加速しているものなので、どこで制御を掛けていいものなのか、考えさせられることだろう。
人間の場合は、精神同様に身体も成長する。
「身体の成長に合わせて、精神が成長する」
と言った方がいいくらいではないだろうか。
しかし、サイボーグやロボットは、人間のように、身体が成長するわけではない。精神だけが成長するのだ。しかも、そのスピードはハンパではない。それを思うと、どこまでサイボーグの身体が、精神回路の成長に耐えられるかということも、問題だった。
実際に、義之もそこまで計算していなかった。確かに肉体の成長のない精神の成長を計算はしていたが、精神の成長に、加速装置が影響してくるなど、計算外だった。いろいろなことを吸収しながら、理屈も理解しておかなければいけないという成長は、想像以上に、義之サイボーグの精神回路を、抑圧していたようだ。
ロボット工学とは、
「人間のように成長するロボットを意識しなければいけない。それは、人間とロボットが決定的に違うものであって、その違いを意識するためには、人間の成長を勉強する必要がある」
という説があった。
ロボット工学の本には、人間との違い、そして、人間と共有できる部分、つまり、人間を意識した部分が、たくさん含まれている。ロボットのことよりも、人間のことの方が多く書かれているかも知れない。
作品名:交わることのない平行線~堂々巡り③~ 作家名:森本晃次