交わることのない平行線~堂々巡り③~
香澄がそこまで考えるのは異例のことだった。
――何もすべてのことを結論付けて考える必要はないのよ――
と考える性格なので、何かの結論を導き出す時、すぐには答えを出そうとしなかった。
しかし、求められた結論に対し、自分で納得できるものなので、見つけた結論に迷いはない。
ただ、香澄はあまりまわりとの協調があるわけではないので、まわりから誤解されやすいタイプでもあった。学生時代には、苛めのようなことも経験したし、それで余計にまわりを信じられなくなってしまったというのも仕方のないことである。
それでも香澄の個人主義は、自分で納得できる分、硬いものであった。硬い考えは、余計にまわりとの確執を産む。まわりからは見えないからだ。
しかも、香澄が作っているのは「結界」であり、触れたものには大きなショックを与えることになる。
もちろん、それまでに香澄の「結界」に触れた人はいなかったが、「結界」なしで付き合いができるようにもなっていた。
その最初が義之サイボーグであり、その次は沙織だったのだ。
義之サイボーグがいなくなったからといって、香澄は彼に裏切られたという感覚を持ったわけではなかった。
――そういえば、私は誰かに裏切られたという感覚を持ったことがあったかしら?
と、考えると、
――裏切られたという感覚を味わったことはあったはずだ――
という思いに駆られた。
しかし、それが誰なのか? ということになると、香澄の中に浮かんでくる人はいなかった。
香澄はしばらく考えて、それが誰なのか結論を見出した。
思い出したわけではない。消去法で考えただけで得た結論だった。
しかし、その結論には説得力はあった。自分を納得させるだけの説得力である。
――そうよ、灯台下暗しとはこのことだわ――
思わず、笑ってしまいそうになった。
それが誰かというのは、消去法で一目瞭然。元々消去するほど自分のまわりには人はいないではないか。
消去していくと、最後には誰もいなくなった。それでも感じたことは事実なのだ。そうなると、
――残るは一人、自分しかいないではないか――
という結論に至った。
そう思うと、納得できる。自分が自分を裏切らないとは言いきれないではないか。むしろ、
――自分だからこそ、自分を裏切るのだ――
という考えを抱いたこともあった。
その考えに至ることのない人は、人から裏切られたことがあるにも関わらず、裏切られたという自覚がない人だ。
その人のことを、
「鈍感な人」
として定義づけることはできない。その代わり、自意識過剰だと言えるのではないだろうか。自意識過剰な人間ほど、自分のことを分かっていない。なぜなら、自分への想いが強いせいで、あまりにも自分を拡大解釈させてしまい、どこが肝心な部分なのかが分からなくなってしまっている。そのため、
――すべてが大切な部分――
としてしか思えないので、絶えず自分だけを見つめるだけしかできなくなる。まわりが見えなくなってしまって、まるで盲目になっているかのような意識をまわりに与えるのは、その人にとっての大きなマイナス要素になっていることだろう。
義之の時代の個人主義と違うのは、教育を受けているわけでも、知名度が高いわけでもない。それは大きな違いであり、人間にとって意識と潜在意識の違いくらいの開きがあるのかも知れない。
潜在意識について考える人は、香澄の時代には一部の人間だけだ。
それも、誰もが考えていないようなフリをしている。別に考えることが恥かしいわけではないのに、そんな風に感じるのはなぜなのだろう?
――誰かが誰かを好きになる――
この感覚は、人に知られたくないと思う。それは人に知られることが恥かしいからだと思うからで、ほとんどの人がそう思っているに違いない。
しかし、潜在意識について考えることは、どこかタブーの意識があるようだ。さすがに、「パンドラの匣」を開けるような感覚になるわけではないはずなのに、どういうことなのだろう?
香澄が誰かに裏切られたと感じたのは、ひょっとすると、
――自分自身に裏切られた――
と思ったからだ。
義之サイボーグは、そのことを一番最初に感じたはずなのに、そのことをすぐに否定してしまった。そして、堂々巡りを繰り返すことで、何度も同じことを考えているうちに、もう一度最初に戻ってきた。
――これが原点なんだ――
と、最初の考えを、まるで今、思いついたかのように感じると、そこには新鮮さがこみ上げてきて、
――自分に裏切られるなんて、不幸なのだろうか?
と考えるようになった。
ここまで来ると、
――裏切ったのは自分だ――
と、いうことに対しての疑念はまったくなくなっていた。まさに灯台下暗し、最初に感じたことが真実だったというのは、初めての経験ではないくせに、おかしなものだと感じた。
――堂々巡りは、悪いイメージばかりではないんじゃないかな?
と、義之サイボーグは感じた。時間は掛かるかも知れないが、間違えた結論を導き出すことはない。それも、一種の潜在意識の成せる業ではないかと思うようになっていた。
香澄の自殺に原因があるとすれば、それは外的なことではなく、香澄自身の中にあることではないだろうか。
自殺する人のほとんどは、最後は自分の中に理由はあるのだろうが、そのプロセスにおいて、必ずまわりからの影響を受けている。香澄の場合は、そのまわりからの影響がまったく見当たらなかったのだ。
だから、香澄が死んだ時も、すぐには自殺として結論づけされることはなかった。形式的にでも、まわりの人との関わりから判断する必要があったのだ。
「だけど不思議だよな」
「何がですか?」
「この人は、調べれば調べるほど、まわりとの関係が薄れていくように感じるんだよ。自殺の原因を調べているはずなのに、違うことを調べているような錯覚に陥ってしまう」
と、香澄の自殺の原因を調べている刑事の話であった。それだけ香澄には不自然なところが多かった。
かといって、人に殺されたという感じではない。当然自然死でもない。
「でも、この人は、死ぬべくして死んだって気がします。私はこの人が死んだことに対しては、さほど疑問はないですね」
「どういうことなんだい? 君は何かこの人のことが分かるのかい?」
「ええ、この人を知っているわけでも何でもないんですけど、最初に死体を見た時、何かを訴えている気がしたんですよ。最初は、『本当は死にたくなかった』とでも言っているのかと思いましたが、そうでもないんですよ」
「というのは?」
「死んだ人というのは、殺されたにしろ、自然死や事故にしろ、『本当は死にたくなかった』という顔をしているものなんですが、この人はそうではなかったんです」
「自殺だとしたら、死にたくなかったなんて顔しないんじゃないのかい?」
「いいえ、逆なんですよ。自殺した人というのは、本当は自殺なんてしたくないはずなんですよ。生きていたいけど、生きていけない理由があって死を選ぶのだから、むしろ自殺した人の方が、『本当は死にたくなかった』という顔をしているものだと私は思うんですよ」
「そんなものかね?」
作品名:交わることのない平行線~堂々巡り③~ 作家名:森本晃次