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交わることのない平行線~堂々巡り③~

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 サイボーグも、それなりに対応していたようだが、混乱は避けられなかったようだ。だは、最初から香澄を目指してやってきていたので、香澄に対しての想いがそのままこの時代の人間として認識したようだ。
 それでも、香澄は他の人たちとは違って、自分からまわりに殻を作っていた。自分に馴染める人だけがまわりにいたようだが、
――私はそれでいい――
 と思っていた。
 彼には、香澄の気持ちが分かるような気がした。
――私はそれでいい――
 というのも、決して言い訳のようには見えななかった。それはサイボーグが義之の時代に生まれたからだろう。香澄は、この時代の人間よりも、義之の時代の人間にはるかに近かった。
 香澄は真面目で、一生懸命に自分のために生きていた。この時代の他の人は、集団意識を穿き違えていて、
「人に好かれたい」
 というよりも、
「人から嫌われたくない」
 という気持ちの方が圧倒的に強い。それは、人から嫌われると、孤立してしまい、まわりからの嫌がらせや、誹謗中傷に晒されることを意味していたからだ。そんなことは少しでも集団意識を持っていれば、耐えられることではない。孤立が孤独に結びつき、いずれ誰も相手をしてくれることもなく、
――まわり全体敵だらけ――
 四面楚歌の状態になることだけは避けなければならなかった。それは、
――人は一人では生きられない――
 という言葉が強く意識の中にあるからだ。
 助け合うという意識から生まれた言葉が、孤立を意味する言葉に変わってしまうのが、香澄の世界の人間だった。
 義之の時代の人間は、孤立主義だった。
 言葉を変えると、自由主義、個性派主義と言えるだろう。そういう意味では、香澄のような女性は、義之の時代にこそふさわしいのかも知れない。サイボーグが香澄を好きになったのも、香澄がサイボーグを好きになったのもそのせいであろう。特に香澄が義之サイボーグに感じたことは、
――好きになった――
 という感情よりも、
――興味を持った――
 という感情だったのかも知れない。
 義之の時代の恋愛は、まず相手に興味を持つことから始まる。この時代でも、相手に興味を持つことから始まる場合もあるが、それよりも感情のまま突っ走るというパターンの方が多いだろう。
 義之の時代には、それはない。感情のまま突っ走るというのは、
「子供のすることだ」
 という割り切りがあった。
 香澄が、どうして余命いくばくもない彼に惹かれたのかということは、義之には分かる気がした。
――香澄さんは、自分の命が長くないことを予感しているのかも知れない――
 それが予知能力だとすれば、予知能力という言葉をもう一度考え直さなければならないだろう。あくまでも、自分以外のことを予知するのが、義之の考えている「予知能力」だと思っている。
 では、自分のことが分かるのは、「特殊能力」ではないのだろうか?
「人のことはよく分かっても、自分のことはなかなか分からないものだ」
 と、言われるが、先のことに関しては、逆ではないだろうか。先のことを自分のことであれば、ある程度察しがつくというのは、感覚の問題であって、「特殊能力」とは違うものだと義之は思っている。
「特殊能力」とは、元々人間の中に潜在しているもの、つまりは隠れているものが、「覚醒」した時、「特殊能力」と呼ぶのではないかと思っている。「超能力」という言葉もあるが、それは香澄の時代の表現であり、この時代にも「特殊能力」という言葉もあった。しかし、使われ方が曖昧なところがあったので、義之の時代には、「超能力」ではなく、「特殊能力」という呼び名で統一されるようになった。「特殊能力」の中には、ある程度まで科学で解明されてきたものもあるが、まだまだ全部を解明するまでには至っていない。
 香澄は、自分のことを分かってはいるが、そのことを自分で信じられなかった。他の人のことよりも、自分のことがよく分かるなどということは、錯覚だと思っていた。自分のことを分かったつもりでいても、他の人には決して話そうとはしない。だから、まわりとあまり調和することができないでいたのである。
 香澄には、他の人との話題性もなかった。二十歳代の女の子の会話がどんなものなのかというのも、あまり意識していない。
 そんな香澄に共鳴できる相手は、沙織が最初だった。
 香澄は元々、自分が教師になりたいと思っていただけに、自分の考えを話したり、会話は苦手ではなかった。ただ、発想が他の人と違ったりすることで、自分から避けていたところがあった。
 自分と同じような考えを持っていて、合うと思った人が見つかれば、会話は決して難しいものになるわけではない。他の人がしているような他愛もない話から、教師として、教え子に諭す話し方も、身についていた。
――一体、どこで身についたんだろう?
 と、自分でもビックリするくらいに「いい先生」になっている。沙織と一緒にいる間は自分が、
「生きているんだ」
 という感覚を取り戻せる時であった。普段は、一人でいる時は、嫌ではないが、生きているという感覚から遠ざかっていたような気がした。沙織と一緒にいる時の香澄は、一種の気分転換をしているものだと思うようになっていた。
 生きていることが気分転換というのもおかしな感覚なのかも知れない。それでも、普段の自分でいいと思っていた。生きているという感覚を味わいたいだけのために、沙織以外の人と一緒にいたいとは思わない。もし、一緒にいたとして、沙織と一緒にいる時に感じた「生きている」という感覚を持つことはできないことだろう。
 香澄は、「生きる」ということに、執着しているわけではなかった。
――私はいつ死んでもいいんだ――
 というくらいにまで思っていた。中学、高校時代は特にそう思っていた。
 別に誰かに苛められたり、毎日逃げ出したいような苦痛に苛まれていたわけではないが、生きていることの意味が分からない以上、生きていても死んでからも、あまり変わらないと感じていたのだ。
 義之サイボーグを好きになってからでも、沙織という共鳴者を得てからでも、その気持ちにあまり変わりはなかった。
――この人たちがいるから、死にたくない――
 と思ったり、
――死ぬのが怖い――
 と思ったりしたこともない。ただ、もし、本当に死というのを目の前にしたら、
――恐怖で身体が動かなくなるかも知れない――
 と感じた。
 それは実際に感じていることと、身体が受ける反応では、かなり違いがあるのだと思っているからだ。そのことに対しては、
「当たらすとも、遠からじ」
 と、言ったところであろうか。
「死を恐れない」
 というのは、子供の頃は、
「勇気のいることだ」
 と思っていた。だが、今の香澄は、勇気があるから死を恐れていないわけではない。生きることに疲れているわけでもない。しいて言えば、
「死ぬことが怖くないだけだ」
 ということになるのであろうか。それはきっと、まだ死んだことがないから言えることであって、そういう意味では、他の人が感じている死に対しての恐怖は、
「死んだらどうなるか」
 ということが分からないことへの恐怖なのだろうと感じる。