交わることのない平行線~堂々巡り③~
頭の中で理解できないこと、いろいろ考えて、結局結論が出ることもなく、それ以上考えることが自分の思考のギリギリであることを悟ると、そこから先を「パラドックス」のせいにして、考えるのをやめてしまう。
つまりは、パラドックスという言葉を使って、考えるという「無限」の意識にピリオドを打とうとする。無意識であるが、無限を求めているくせに、求めている無限が自分にどのような影響を与えるかを思い知るという皮肉な結果を産んでしまうことになるのだ。
――やっぱり無限なんて存在しないんだ――
本当は存在するのかも知れないが、それが自分以外のところで展開されるものであればいいのだが、自分に関わってくると、これ以上の恐怖がないことから、途端に逃げ腰になる。
――それが人間なんだ――
ただ、香澄の時代の人間には、その感覚がない。
それは、香澄の時代の人間が強いわけではなく、そこまでに至るまでの精神状態になれないのだ。香澄の時代の人間は義之の時代の人間ほど、自分を大切にし、真面目にいろいろ考えている人間が少ないということになる。やはり歴史を勉強できる環境にあるのに、歴史が嫌いだという人がほとんどの香澄の時代の人たちと、歴史を勉強したいと思っているのに、勉強する機会を極端に制限されている義之の時代の人間の考え方、おのずと、どちらが真面目で、一生懸命に生きているのかが分かるというものだ。
それは、個人主義という考えとは異なっている。
義之の時代は、基本、個人主義だ。
もっとも、結社や団体の形成を極端に制限されているというのもあるのだが、個人個人の研究が、自然と世の中の形成に一役買っている。
逆に香澄の時代の人間は、道徳や同和などで、団体行動を重要としている。
義之の時代には、戦争の悪夢からの教訓だが、本当は香澄の時代の人間もさほど変わらないはずだ。
「集団意識」
という言葉があるが、それは、
――集団であって、集団ではない――
と言えるだろう。
集団意識というのは、
「あいつがやっているなら、俺も」
というように、自分の意志よりも、他の人の行動を正当化することで、自分の行いを悪いことではないと納得させ、容易に行動に移させるだけの、
――言い訳――
にしか過ぎない。
言い訳がまかり通ると、集団ではない個人の状態のモヤモヤしたものを纏めようとする人間が現れる。
歴史に残っている場合、そのほとんどは、
「独裁者」
である。人の心を洗脳することで、集団を形成していく。マスコミはプロパガンダしか放送せず、独裁者は集団のリーダーとして君臨し、自分がまるで教祖にでもなったかのような危険分子に変わるのだ。
そのことを一番分かっていなければいけないのは、香澄の時代の人たちのはずなのに、歴史に対しての認識が極端に薄いので、結果、同じことを繰り返すようになる。
歴史は事実しか語らない。つまりは、その人がどのように考えるかによって、いくらでも変わってくるものだ。一人一人漠然とした認識を持っているだけで、歴史を嫌っているのだから、バラバラである。
それを一つに纏め、導こうとする人が現れれば、自分の意見を持っていない人は、その人に一番洗脳されやすいだろう。
洗脳されてしまうと、
――集団意識こそ、一番強いものだ――
ということを自分の中で納得する。
それまで納得するということがなかった人たちは、納得ということに飢えていたのだ。それを教えてくれた人についていこうという考えになるのも当たり前だというのものだろう。
独裁者の歴史に、
「明日はない」
ということは、歴史が答えを出しているのに、それでも独裁者に引っ張って行かれるのは、それだけ歴史認識がないからなのだが、それは、歴史というものを、
「暗記科目」
だとして教育を受けてきたからだ。
歴史は、一番思考を必要とする学問である。
なぜなら、一番情報が少ないものだ。過去のことであり、いろいろ発掘や考古学は発展して、少しずつ解明はされてはいるが、それでも、発掘物から何を学ぶかということの方が、発掘自体よりも重要であり、はるかに難しいことである。
義之は、この時代に来て、この時代の人間と接してみて、本当にガッカリしてしまった。こんな連中が自分の先祖だったのかと思うと、
「浄化も仕方がなかったのかも知れないな」
とひとりごちた。
――交わることのない平行線があるとすれば、この時代の人類と、我々の時代の人類、同じ人類でありながら、決して交わらないんだ――
と、考えるようになった。
だが、事実として、自分の先祖がここにいることは間違いない。何かを正さなければならないと思ってこの時代にやってきたが、次第にその気持ちも薄れていった。
ただ、自分の先祖は救わないと、自分が生まれてくることはない。義之は、是が非でも自分の先祖を守らなければいけないと思った。
自分が沙織や香澄の前に現れて、ストレートに事実を述べたとしても、
「何言ってるのよ。あなた、どこかおかしいんじゃないの?」
と、言われるのがオチである。
義之の時代の人間は、義之を含め、性格は真面目で、一生懸命なのだが、精神的には脆くなっている。ちょっとしたことを言われただけでも、すぐにショックで寝込んでしまうほどである。
――あの時の戦争がすべてだったんだ――
人間のいいところ、悪いところ、過去も未来も帳尻が合うようになっていた。どちらの世界の人間が、ずば抜けて素晴らしいということはない。それぞれに一長一短、
「天は人に二物を与えず」
という言葉は、義之の時代の人間にも言えることだった。
そういう意味で、サイボーグやロボットに、あまり考える力を埋め込もうとする人は少なかった。義之はそれを敢えて、自分のサイボーグに、考える力と、成長する力を埋め込んだ。
義之は、香澄の時代の人間と、まともに話すことはできないだろう。
自分のことを言われているわけではないのに、会話を聞いていると、心が折れてくるのを感じる。
――どうして、相手に罵声を浴びせられて、あんなに笑っていられるんだ?
香澄の時代の人間は、世間話の中に皮肉などを込めて、少々悪たれをついたりする。それが義之には信じられなかった。
絶えず一生懸命に生きている義之の時代の人間に、そんな悪たれは信じられない。そう、「遊びの部分」
つまりは、
「ニュートラル」
が、一生懸命にしか生きることのできない人間には理解できないのだ。
それも、義之の時代の人間の「一短」なのだ。
心が弱いということに結びついてくるのだが、香澄の時代の人間であれば、考えるキャパが狭い人がそうなりがちなのだが、義之の時代の人間には、考える力は、香澄の時代の人間に比べても遥かに強い。それなのに、遊びの部分がないというのはどういうことなのだろう。義之には納得できることではなかった。
やはり、二つの時代は表裏一体でありながら、
――決して交わることのない平行線――
なのに違いない。
作品名:交わることのない平行線~堂々巡り③~ 作家名:森本晃次