交わることのない平行線~堂々巡り③~
沙織のことは、ほとんど知らなかったが、頭の中には意識として残っている。それは、義之本人の意識を、埋め込まれているからに違いない。
――ひょっとして香澄は、自分の後ろに、まだ見ぬ沙織を見ているのかも知れない――
と感じていた。
だが、本当は香澄が誰かの後ろに沙織を感じるとすれば、それは義之本人であろう。
香澄が、義之本人とサイボーグが違うということを一瞬にして認識したのは、おぼろげながら、後ろに見えるものが違ったからなのかも知れない。
義之本人の後ろには沙織を感じた。では、義之サイボーグの後ろには誰を感じたのだろう?
誰かを感じたのは間違いなかった。その人は自分が知っている人だったのかどうか、後から思い出そうとしても思い出せない。
香澄は、自殺した彼の葬儀で、不思議な会話を聞いたのを思い出した。
お寺の境内の奥の方だったので、誰もいないと思って話をしていたのだろうが、
「どうやら、遺体は見つかっていないようなのよ」
「えっ? じゃあ、自殺というのも分からないということ?」
「ええ、話に尾ひれがついて自殺ということになったらしいんだけど、滝つぼに身を投げたという話で、遺書と靴は、その場所にあったというの。その場所は身を投げると、なかなか遺体を確認できないところのようで、自殺と判断したのは、やはり、彼の余命が決まっていたこともあって、世を儚んで自殺したんだと思う方が自然でしょう? 遺書があった以上、自殺以外だとすれば、彼は誰かに殺されたということになるわね」
香澄には、彼が誰かに殺されるというのはイメージが湧かなかったが、急に目の前から消えてしまうというのは、想像できるような気がした。
最初は信じられなかったことも、彼の顔を思い出そうとしているうちに、
――あの人になら、少々何があっても、驚かないわ――
と、感じるのだった。
そういう意味では、自殺したとされる彼は、義之サイボーグに似ていた。どこか不思議なところを醸し出しているが、その不思議な感覚は香澄にしか分からない。
「ただの変わり者」
として、他の人の目には写るだろう。だが、同じ変わり者でも、性質はまったく違う。義之サイボーグは、途切れた会話を繋ぐことができる相手だが、余命いくばくかの彼氏は、一旦会話が途切れてしまうと、そこから先は静かで冷たい時間が続くことだろう。
香澄にとって、
――彼は何だったんだろう?
という思いが頭を過ぎった。
香澄自身は彼が死んだことにショックは受けたようだが、遺体が見つからなかったことで、何かホッとしているように見えた。
義之本人は、サイボーグと違って、
――彼女は自分の先祖である――
という意識が強い。
ただ、あくまで情報は限られている。何しろ、香澄の時代から自分たちの時代までの溝は、限りなく深いものがある。もし、この世界にパラレルワールドというのが存在するのだとすれば、
――香澄の時代から見て、義之の時代は本当にパラレルワールドなのだろうか?
という疑念が浮かんでくる。
しかし、香澄と沙織の子孫が義之であることは、科学的にも証明されている。それが違っているのだとすれば、今までの行動がすべて間違っていることになる。わざわざ自分に似せたサイボーグを創り上げ、危険を顧みず、過去に送り出すなど、暴挙とも思えることをしているではないか。
――そもそも、こんな暴挙に出る価値が、本当にあるのだろうか?
パラドックスに逆らってまで、なぜ義之はサイボーグを作って送り出したり、先祖に会いに来たりする必要があったというのだろう?
もちろん、最初は、
――どんな危険があろうとも、この計画は成功させないといけない――
と思っていたはずだ。
義之は。そもそもの計画が何だったのか、少しずつ忘れかけている。もちろん、計画を残しているのは間違いないが、後から見ても分かるつもりで書いていたはずなのに、実際に後から見ると、
――どうして、こんなことを考えたんだろう?
と、本当に自分の考えであることを疑ってみたくなるほどだった。
義之の性格から、お世辞にも
――綿密に練られた計画――
というわけにはいかないが、それなりに理路整然としていた。
元々の計画は、数少ない過去の歴史認識の材料と、先祖に対する認識の中で計画したもの、当然、状況が変われば、計画も軌道修正を余儀なくされるだろう。
義之はそのことも計算はしていたが、やはり過去に来てみれば、自分の想定とはかなり違っていることに戸惑ってもいた。
サイボーグが、香澄を好きになるところまでは計算できたが、香澄の方がサイボーグを好きになるなどということは計算に入れていなかった。
人間がサイボーグを好きになるという感覚に対して、タブーだと思う感覚は、香澄の時代よりも、義之の時代の方が遥かに大きい。サイボーグというものを、
――まだまだ近未来の架空の存在――
だと認識している香澄の時代の人間がサイボーグを好きになるというのは、夢物語のように思っていても、実際に比較対象がないのだから、ただの想像で、それだけ可能性という意味で、
――サイボーグを好きになる人間がいたっていいじゃないか――
という発想を持つ。
それは、存在しないものに対して感じることは無限であるという、ある種の「妄想」のようなものである。
そういう意味では、妄想ほど「強い」ものはないかも知れない。妄想が無限ではないとしても、限りなく無限に近ければ、強さは他のものに比べても真実味を帯びてくるというものだ。
――無限というものは、本当に存在するのだろうか?
過去というのは、必ず始まった時期があるはずなので、無限ではない。では、未来には限りがあるのだろうか?
それは誰にも分からない。
もし、それを調べようとして、タイムマシンを開発したり、いろいろな想像を巡らせることで、理論として確立させようとする人はたくさんいる。だが、そこで何かの力が働いて妨害があれば、少なからず、どこかに限界が存在しているという考えは、突飛な考えだと言えるだろうか?
無限だと考えていることは、
――限りなく無限に近い有限――
だったり、あるいは、
――堂々巡りを繰り返しているだけで、結局いつかは同じところに戻ってくる――
という考えもあるのではないか。
――歴史は繰り返す――
という言葉もあり、聖書にしても、香澄の時代から義之の時代に至るまでに起こった「浄化」を思わせる未曾有の大戦争など、その最たる例ではないだろうか。
――必ずどこかで一度は壊さなければいけない世界――
「積み間違えた積み木細工を正しく組み直すには、一度壊して組み立て直すしかない」
という言葉がそのことを表しているのかも知れない。
その時、ずっと平行で走っていて、決して交わるはずのない二本の線が交わる瞬間を、ずっと待っているという感覚が、義之の中に芽生えた。
パラドックスとして踏み入れてはいけない世界もあるが、すべてをパラドックスとして片づけてしまっているだけなのではないかと思った。
作品名:交わることのない平行線~堂々巡り③~ 作家名:森本晃次