交わることのない平行線~堂々巡り③~
平和な時期は、そんなに続かないという格言が生まれたのもこの頃だ。世界のどこかでいくつもの火種が紛争として燻っている。未曾有の大戦争が起こってしまう要因は、どこにでもあった。
その中の些細な紛争から歴史は狂い始めた。いや、狂ったのではなく、着実に進んでいただけなのかも知れない。
「積み間違えた積み木細工を正しく組み直すには、一度壊して組み立て直すしかない」
という言葉の通りになってしまった。
「聖書」の中に出てくる「ソドムの村」や「ノアの箱舟」など、その最たる例ではないか。ただ。それを行うのは神であって人間ではない。それを人間自らしてしまういうのは、まさしく、
「人間が神になろうとした」
ということではないだろうか。
そのことも「聖書」は、「バベルの塔」という形で残している。
「聖書」というのは、一宗教の聖典でありながら、その実、「予言書」のようなものだと考えてもいいだろう。
それは、警告でもある。
「人間が神になろうなどとすると、不幸が訪れる」
ということだ。
それは「聖書」に限らず、古代文明の戯曲のテーマでもある。
神というのは、人間にとって絶対的な存在であり、侵すことのできないものだ。しかし、神は人間と同じように嫉妬深く、感情も激しい。力が強いだけに、人間などひとたまりもない。被害を被るのは人間なのだ。そのことを宗教として宣教しているが、そこに何の意味があるのか、誰に分かるというのだろう。
義之は、香澄の時代にやってきて、
「同じ人間なのに、ここまで考え方が違うんだ」
と感じた。
しかも、自分たちの時代に、国家というものは複数存在するが、国家主義がそんなに違うことはない。それに比べ、香澄の時代の人間には、国家が数多くあり、しかも、国家ごとに体制が違っている。
「これなら、いつ戦争になってもおかしくない」
しかも、同じ国家内でも、主義主張が別れていて、特に民族が複数いる国家は、国内紛争が絶えない。それこそ、歴史認識が大切で、自分たちの時代と違って、歴史の教育が重要だった。
しかし、ほとんどの学生は歴史が嫌いだったり苦手だったりする。
それは、本当に教えなければいけないことを教えるわけではなく、歴史を単なる「暗記科目」としてしまっているからだ。
せっかく歴史を知ることができる環境であるにも関わらず、歴史をないがしろにしているように見え、義之はやるせない気持ちになっていた。
義之自身、歴史という教科を勉強したことがなかった。
香澄の時代に来て、図書館で歴史関係の本を読み漁った。
義之の時代ともなると、本を読むのに時間は掛からない。本に書かれている文字を読まずとも、ヘッドホンカメラに文字を写すだけで、声となって耳に入ってくる装置があった。本当なら文字を読むのが一番いいのだろうが、あまり本を読んだ経験のない義之は、読んでいるうちに気が散ってしまうことが結構あった。しかも、ある瞬間を通り超えると急に睡魔が襲ってくる。これでは、本を読んでいるどころではないだろう。
歴史の本を読みこんでいると、今度はいろいろな疑問が浮かんでくる。
それは香澄の時代の人間が、きちんと勉強すれば、
「そんなのは当然のことさ」
と思えるのだろうが、歴史は未曾有の大戦争の時点で一度終わっているのだ。
「文明の崩壊」
それは、歴史の終焉を意味していた。
一度途切れてしまった歴史。そういう意味では、義之たちは「新人類」でありながら、香澄たちのような終末に近い歴史の中で生きている人たちと比べて、とても未来からの人間のようには思えなかった。
「人間として完成されているのは、どっちなんだ?」
と考えると、義之は分からなくなってきた。
沙織に対して情が浮かんだのも事実だし、沙織に対して、
「ウソをついてはいけない」
と感じたのも事実だ。
だからと言って、沙織や香澄が自分たちより優れているとは思えない。かといって、自分たちの方が優れているというのは、なおさら信じられない。義之の時代の人間は、真剣に生きているように心の中は感じられるが、さらに奥には、計算の元に生きているだけ、つまり生きているというよりも、
「生かされている」
という意識が強くなっているのだ。
香澄の時代の人間は、表向きは一生懸命に生きているように思えるが、それは自分のことに精一杯で、まわりが見えていない。それは社会体制が、義之の時代と違っているので仕方がないことなのかも知れない。
それでも、義之には香澄の時代の「自由な風紀」が気に入っていた。この時代に生まれて生きていくというのは嫌だったが、途中からでも、こちらの時代で生きてみたいという意識はあった。
義之は、サイボーグが香澄を置いて途中で元の時代に戻ったことは知っていた。しかし、それがなぜなのかまでは分からなかった。まさか、自分たちの時代の人間に入っていたチップが香澄の中に入っていないことに疑問を抱くなど、想像もつかなかったからだ。もっとも義之も自分の身体にチップが埋め込まれているなどということは、高校の時、ロボット工学を志そうと思わなければ、二十歳になるまで知らなかっただろう。
義之の時代にも、成人式という儀式はある。
成人は、香澄の時代と同じ二十歳であるが、その時になって、式典の中で、講演に来た人が、自分たちの中にチップが埋め込まれていることを話すのだ。
別に隠しておく必要はない。かといって、無理に話す必要もないということで、
「二十歳になったら、成人式の時、初めて知らされる」
というのが、義之の時代の恒例になった。
――ロボットでもない人間の体内に、異物が組み込まれているなんて――
誰もが自分の身体に違和感を感じるのだろうが、すぐに意識は元に戻る。チップにはそういう効力も組み込まれていた。
もちろん、香澄の時代の人間には、そんなことが未来の人間に起こるなど、想像もしないだろう。だが、人間の考え方はいつもギリギリになるまで、危険を回避できないようにできているということを知っている人は、義之の時代に比べれば多いかも知れない。微々たるものだということは間違いのないことだが、それでも間違いを繰り返してしまうのが人間というもののようだ。
義之は、この時代の歴史の本を読むのが好きになった。もちろん、未来に持って帰ることはできない。勝手に時代を超えさせることは許されないのだ。
もし、歴史書を自分たちの時代に持って帰ると、きっと風化してしまうだろう。逆にこの時代のものを過去に持って行っても、劣化はしないが、もし、過去の人間にその書物を見られて、未来を知ってしまうようなことになれば、どうなるだろう?
しかし、義之は未来の話を沙織にしてしまった。
――沙織には、未来の話をしても構わない気がした――
それは錯覚ではない。沙織は未来のことをちゃんと知っていた。半信半疑であったが、それを自分では予知能力の賜物だと思っていたようだ。
――予知能力というのは、沙織の特殊能力だが、それは本当に持って生まれたものなのだろうか?
義之は、自分の時代にあった学生時代にあった本を思い出していた。
確か、その時の本には、
作品名:交わることのない平行線~堂々巡り③~ 作家名:森本晃次