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安全装置~堂々巡り②~

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 しかし、そこに根拠はない。ただ、感覚として自分が二重人格だという思いを持っていただけだ。
「それがまさか、別の人格を有しているなんて」
 と思うようになると、
「じゃあ、自分のような人間を何て呼べばいいんだろう?」
 と思うようになった。
 すると、「二重人格」という言葉のあることが、障害になっているような気がして中途半端な気がしてきたのだ。
 義之は、自分の作った三十歳代のアンドロイド、そこに自分の人格のどちらを入れようか悩んでいた。
「まず、自分が最初に感じていた人格である『現実主義』を埋め込んで、香澄先生に会ってみよう」
 と考えた。
 香澄先生の情報に関しては、ほとんど得ることができなかった。途中で自殺をしていて、香澄先生自身の墓地は分かっているので、まずは、香澄先生が火葬された時のお骨を手に入れることが先決だった。タイムマシンを使って、香澄先生の火葬場に出かけ、お骨を採取することは、さほど難しいことではなかった。(その時代の人には想像もできないことではあるが)
 香澄先生のお骨を手に入れて、そこから、その人の歩んできた人生をある程度まで解析することは義之の時代では可能になっていた。
 もっとも、それが可能になったことで、ロボット工学の研究が飛躍的になったのだが、そのお話は長くなるので、ここではやめておこう。
 アンドロイドにも、当然のことながら、ロボット工学基本基準が組み入れられている。
 そこで、義之は一つ心配なことがあった。
 ロボット工学基本基準というのは、人間に対しての「安全装置」であり、それは人間の性格やその立場如何にはとらわれない。あくまでも、その場面を客観的に見て、基本基準が守られることになる。
 つまりは、そこには感情が入りこむ余地はないのだ。
 過去の人間には過去の立場も考えもある。それを感情を持たないロボットが関わっていいのだろうか?
 だから、義之はアンドロイドにロボット工学基本基準とは別に自分の意識を入れることにしたのだ。
 しかも、優先順位は、ロボット工学基本基準よりも高いものであった。
 それが、今から行うことにどのような影響を与えるのか、想像もつかない。
 さらに気になったのは、香澄先生が自殺をしたという事実だ。
 自分で自分の命を奪うなどという発想は、正直、ロボットにはない。基本基準の第三条よりも第一条が優先するということで、
――自分を犠牲にしてでも、人間に危害が加わらないようにする――
 という考えがあるくらいだ。
 これはもちろん、自殺ではない。それはロボットが感情を持っていないから、自らの命を断つという感覚が分からないのだ。自殺というのは、
「辛いことがあって、それは生きていくことに耐えられることではない」
 という発想から生まれるもので、優先順位で決まることだ。
 ロボットの優先順位は、あくまでもロボット工学基本基準の中にしかない。それはロボットにとっては三つしか優先順位を考える基本事項はないのだ。
 そういう意味では、
「ロボットは自分の意志を持たない」
 という発想がずっと息づいてきたのだ。
 だが、義之の時代のロボットは、ある程度まで自分の性格を持っている。それは製作者の性格である場合もあるが、ほとんどは、大量生産される労働用のロボットなど、使用目的によって、性格はマニュアル化されている。ロボットのボディが大量生産されるのと同じで、性格回路やロボット工学基本基準を格納した電子頭脳も、大量生産されていた。
「だが、それって、本当にロボットの意志と言えるのだろうか?」
 義之の時代の人間は、昔に比べて、爆発的に二重人格者が増えたと言われる。そして、同じくらいに躁鬱症の人間がいたのだ。
 二重人格者であっても、躁鬱症でなかったり、逆に二重人格ではないが、躁鬱症だったりという人も結構いた。一見、この二つに相関関係などないというのが、「人間の医者」の診立てだったのだ。
 義之にとって、ロボットというのは、
「人間とはまったく違った存在で、決して人間や動物のような生き物ではないことから、心を許してはいけないものだ」
 という基本理念が頭の中にあったのだ。
 ただ、義之が学生の頃、すでに教員ロボットが採用されていた。
 高校時代に、義之の学校にも女性型のロボット女教師がいた。
 担任などのような責務を負わせるわけではなく、ただ勉強を教えるだけの単純なロボットだったが、雰囲気や外観は本当の人間と変わりなかった。
 その時の義之はこともあろうに、ロボット女教師に恋をした。
 それは初恋だった。
 中学時代まで、女性に興味を持つこともなく過ごしてきたが、何を思ったか、高校生になってロボットに恋をしたのだ。
 中学時代までの義之は現実主義の性格が災いしたのか、まわりが女の子に興味を持って、無責任なセリフを吐いているのを聞くと、
「俺はあいつらとは違うんだ」
 と思っていた。
 これを本人は現実主義だと思っていたのは、特別症候群の自分が表に出てくることがなかったからだ。
 もちろん、自分の中にもう一つの人格が存在するなど、想像もしていなかった。ただ、
「二重人格ではないか?」
 という思いはずっと持っていた。
 だが、どこかおかしいのは自分でも分かっていた。二重人格にしては、もう一つの性格が見えてこなかったからだ。それなのに、まわりからは、異常な視線を感じることがあった。それは、義之を直視しているわけではなく、義之の後ろを見ているような感じだったのだ。
 余計に気持ち悪さを増幅させた。
「やっぱり、二重人格なのかな?」
 と思ったが、もう一つの性格が見えてこないだけに、対応のしようはない。
 ただ、学生時代までは現実主義と、特別症候群は似たような性格だと思っていた。たとえて言えば、
――交わることのない平行線――
 ニアミスなくらいに近くにあるにも関わらず、絶対に交わることのないその存在は、近すぎるがゆえに気付かない。考えてみれば、これほど怖いものはない。
 その怖さが学生時代に、完成されてしまったからだろうか。卒業してからは。この二つの性格は、まったく違うものだという結論を得ることになる。
 それがまさか自分の中にあるなどということを知らずにずっと生きてきた。分かってしまうと、その時に初めて、人格が別の人間が同居していることを実感しなければいけない状況に陥り、納得できないまま、受け入れるしかなかったのだ。
 だが、次第にこの性格が悪いものではないと思うようになってきた。
 むしろ、こういう人間は、本当は他にもいて、誰も気づいていないだけなのではないかと思うようになっていた。
 それは「二重人格」という似たような表現だが、まったく違う性格が存在しているからだ。
 表から見れば同じように見えるが、本人にとってみれば、まったく違っている。
 まわりから、
「お前は二重人格だ。自覚するか、治すようにしないとダメだ」
 などと、無責任な他人は言うかも知れない。特に親や先生なら言うだろう。