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安全装置~堂々巡り②~

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 ひょっとすると、表向きには、自分が病気で長くないということを知らないふりをしていたが、本当は知っていて、それを自分で何とか消化できるようにするために、日記をつけようと思ったのかも知れない。
 日記というのは、人に見せるためにつけるものではなく、自分の誰にも言えない秘密や心の奥にしまい込んでおきたいことを、言葉にできない分、文章で残しておこうとするつもりで書いている人もいるのではないだろうか。自分のために書いているのであれば、誰に構うことはない。思い切り書くことができるので、少々物ぐさな人でも続くのだろう。逆に面倒臭がり屋の人の方が続くのかも知れない。毎日続けていくうちに、慣れてくることで、苦にならなくなるからである。
 日記も毎日つけていると、つい毎日同じ内容になりがちだが、この人の日記は、そこまで同じ内容になっているわけではなかった。ただ、パターンは同じで、その日の天気を書いて、天気によって自分の心境がどうなのかを書いて、その後、その日にあったことが書かれている。
 一見普通の日記だが、同じパターンのせいか、微妙に違っている内容でも、精神状態がかなり違って感じられるのは、それだけ沙織の切羽詰った状態が垣間見られるからだった。
 本人は意識していないつもりでも、やはり病はゆっくりと進行している。その状態を日記の文面から見て取れるのだった。
 ただ、日記には、
「寂しい」
 という言葉は、最初の方に綴られているだけで、途中から消えていた。日記の内容から孤独を見て取ることはできるのに、寂しさは感じられない。それどころか、
「日記を書いている時の私は、一人ではない」
 という文面がところどころに見られるようになっていた。日記を書いている時だけ、もう一人の人格を感じているということも、書かれていた。
「だから、私は日記を書くのをやめられない」
 という文章が、日記の最後に書かれている時期が多くなっていた。
 どうやら、その頃になって、沙織は自分の中にいるもう一人の性格が誰なのかを悟ったようだ。
 日記の中に、名前は明記されていないが、
「声を掛けると、答えてくれるような気がする」
 と書かれているのを見ると、日記の表には、自分の中にいるもう一人が出てきているわけではないようだ。
 日記は会話の記録ではないので、自分の中のもう一人が何を言いたいのか、文面だけでは図り知ることができない。
 日記を見ていると、自分の中にもう一人誰かがいるのを最初に悟ったのは、沙織だったようだ。沙織のさらに先祖にも同じ思いの人がいたのかどうかは分からないが、もう一人の存在を知っていて、その人が自殺したことで、自分の中に入りこんだことを最初に知ったのだ。
「でも、この時代には、死んでしまった人の性格を維持させるような装置は、まだ開発されていないはずなので、誰かが先生の脳にインプットされている意識を彼女に移植するような手術を施さないといけないはずだ。一体誰がやったのだろう?」
 読み進んでいくと、どうやら、そこには、三十歳代の自分が現れているようだ。
 自分が三十歳の時には、まだタイムマシンは実用化されていないはず。義之が五十歳になった時でも、まだ非公式にしか使用されていなかったはずだ。
 ただ、パラドックスに関しての問題に関しては、ほぼ正確に解決されていた。問題は使用目的だった。義之のように、自分の過去が変わってしまうのを防ぐために使うのは、問題なかったのだ。
 義之は三十歳代の自分のアンドロイドに、今の自分の意識を入れて、タイムマシンで過去に飛んだ。まずは、香澄先生が生きている時代に戻ってみたかった。もちろん、過去の自分を見る前にである。何よりも、どうして香澄先生が死ななければいけなかったのか、それを知りたかった。沙織の日記には、香澄先生は男に裏切られたと書いていたが、それこそ信憑性に欠ける。
「自分の目で確かめなければ気が済まない」
 と、義之は考えた。
 義之は、未来世界においての「現実主義者」だった。
 未来世界では、理想主義を掲げている人は「現実的ではない」という考え方ではない。どちらもその人の中に存在することも「有」なのだ。そのいい例が、義之だったのだ。
 理想主義というのは、夢を見る。そして夢を現実にしたいと思うのは、今も昔も変わりない。ただ、昔は、
「この二つが同居することはありえない」
 という学説があり、それが定説として揺るぎない地位を示していた。だが、心理学がある時期を境に革命的に進歩した。その時に、理想主義者と現実主義者の同居が許されないというのは迷信だったということになったのだ。
 さらに、彼のもう一つの特徴は、
「他の人と同じでは嫌だ」
 というものだった。
 現実主義とは、また違った性格で、どちらかというと、これも性格の同居はあまり考えられない。
 それゆえに、
「自分の中にもう一つの違った人格が存在する」
 と思ったのだ。
 そう思うと、現実主義の自分と、他の人と同じでは嫌な性格、つまりは「特別症候群」とでもいうのだろうか、この二つは相容れないものとして、一緒に表に出ることはできないものだと思えた。
 大昔の小説で、一人の人間の中に二つの人格が存在する話を読んだことがあった。結末はどうなったのか覚えていないが、まったく同じ人間の中に二つの人格が存在するなど、ありえることではないだろう。
――一人の性格が表に出ている時、もう一人の性格はどこに封印されているのだろう?
 義之は敢えて、「一つの人格」とは言わずに「一人の人格」という表現をすることにした。「一つの人格」という表現では普通の二重人格というだけに収まってしまう。
「二重人格」という言葉は、義之の中では中途半端な気がしていた。
「二重人格」と言われる人は、一つの性格が表に出ていても、もう一つの性格が隠れているというわけではない。性格の中で葛藤を繰り返すこともある。もちろん、どちらか強い方が主導権を握り、弱い方を意識させないこともあるだろうが、完全に格納しているわけではないだろう。そうでなければ、
「私は『二重人格』なんだ」
 という意識を自分から持つことはない。なぜなら、「二重人格」という性格は他の人から見てタブーであり、迂闊に本人に対して触れてはいけないことの一つなのだと思うからだ。
 それを本人が分かるためには、自覚するしかないのだ。
 自覚してしまっても、二重人格者はその瞬間から雰囲気が変わることはない。それは、本人が二重人格であるということをまわりに悟られたくないと思うからだ。
 実際に感じるというよりも、無意識のうちだと言っていいだろう。二重人格だというのをタブーだというのは、誰の意識にも備わっているものであり、二重人格者が自覚すると、人に知られたくないと感じるのは、三段論法のような簡単な理屈である。
 ただ、理屈というのは簡単なほど、なかなか意識の中にあるものではない。簡単すぎて意識することはないからだ。無意識に感じることが、得てしてその人に大切なことであるというのも無理のないことであって、義之は、
「俺は二重人格者だ」
 とずっと思っていた。