安全装置~堂々巡り②~
と思うが、血が通っていないロボットに対してまで、そこまでの感情を人間が抱くだろうか。
「ありえないことだ」
と、彼は思っていた。
相手が生き物であれば、まだ、苦しむ表情が分かる。しかしロボットは昆虫と同じで表情がない。苦しむ姿を感じなければ、同情もない。ただ、ロボットは昆虫にはない「言葉を喋る」ということができる。そういう意味で、義之の時代のロボットは、寿命が分かってしまうと、さすがに使用者にも情が移るようで、電気製品のように、すぐに買い替えれば済むという感覚ではない。
それは、義之の時代のお話で、香澄の時代の人間が、ロボットをどのように見れるだろうか?
義之の時代の人間は、未曽有の大戦争を経験したこともあり、生まれてすぐに、大手術が行われている。それは、
「人間に対して、殺傷することは絶対に許されない」
という「人工知能」を埋め込まれる。それは生まれてくれば誰に対してでも平等の手術であり、まるで香澄の時代の「予防接種」のような感じである。大手術と言っても、時間的にもあっという間のことで、催眠光線によって眠らされた間に行われている。
催眠光線の効き目は一時間。本人に意識がない間のことである。
義之の時代の人間と、香澄の時代の人間との間の一番の違いは、この人工知能が入っているかいないかだ。人工知能は、ほとんどの場合、本人が意識することなく、死が訪れるまで、動作することはない。要するに「保険」のようなものなのだ。
ロボットにも同じものがついている。というよりも、最初はロボット用に開発されたものが、人間に対して役立つように改良されたのだ。
ロボット工学が目まぐるしい進歩を遂げたが、一旦、開発が膠着状態に入ると、今度は医学が、ロボット工学に追いつこうとするかのような大発展を遂げたのだ。
人間が苦しむことなく、光線だけで眠らされた間に、手術が行われる。電子メスでは傷跡が残ることもなく、香澄の時代に「不治の病」とされたことも、ほとんどが、簡単な手術で治るようになった。薬だけで治るものもあり、医学の進歩は、人間を「死なない動物」にしてしまった。
しかし、寿命だけはどうすることもできない。
いや、寿命に手を付けてしまうと、
「神への冒涜」
として、宗教団体が黙っていない。
それどころか、医学界でも、
「人が死ななくなると、今度は人口問題を引き起こし、自然界の摂理に逆らうことになる」
ということで、寿命に関わる発展は、考えられることもなかった。
そのため、それまで自分のコピーともいうべき、自分を鏡に写したようなサイボーグの開発をする人はいなくなった。
「自分に似たサイボーグが死ぬことなく、年を取ることもなく、自分よりも確実に生き残るのを見ながら死んでいくことに耐えられない」
という考えが主流になってきたからだ。
そういう意味で、義之サイボーグの開発は、義之の時代ではタブーであり、秘密にしておかないと、物議を醸すかも知れないものだった。しかし、サイボーグの目的は違うものにあった。
「自分にできないタイムトラベルをさせること」
だったからである。
これはこれで物議を醸す問題に発展するかも知れない。
「人間に対して、殺傷することは絶対に許されない」
これは、彼らの基本基準の第一条に牴触する。そして、自分の創造主にも同じものが入っている。
しかし、自分が接しなければいけない人には、その考えはない。だが、香澄にはそんな人工知能がなくとも、同じようなものが感じられた。この時代の他の人に感じられることなのかどうか、そこまでは分からなかったが、少なくとも香澄に対して感じたことは彼が香澄を好きになるという事実に大きな影響を与えたのは間違いないことだ。
その同じ感覚は、香澄の側にも感じられた。
自分のまわりの人間が自分に対して、殺傷とまではいかないまでも、差別的な目を向けているのに対し、いきなり目の前に現れた彼には、差別的な目はまったく感じられない。初めて会ったはずなのに、
「初めて会ったような気がしない」
と、感じさせたのも彼だけだったからだ。
サイボーグも、今まで義之の時代の人間しか見ていなかった。彼らには人間に対してのことだけしか考えていない。もちろん、過去の教訓から生まれたことだが、人間独自の世の中ではないはずなのに、人間は、自分たちだけのことしか考えていない。
香澄の時代の人間は、ある意味もっとひどかった。
もちろん、ロボットというものがまだ存在していない時代だったのだが、彼らには人間という概念はあまりない。
国と国とが争っているような世界。一つの国家の中にもいろいろな派閥が存在し、駆け引きを繰り広げている。それも、自分の利益になること以外は何もしようとしない。他の派閥がどうなろうと知ったことではないのだ。
最終的には個人主義、誰もが、
「自分さえよければそれでいい」
そんな世界だったが、彼はどちらの世界にも幻滅していた。
「結局、俺たちはそんな人間から作られた『創造物』でしかないんだ」
という思いを強く持っていた。人間で言えば、「被害妄想」というべきものなのかも知れないが、それ以外の表現は当てはまらない。
彼は、義之の時代の人間には、生まれてすぐに、
「人を殺傷してはいけない」
という頭脳が埋め込まれていることは知っていたので、香澄の時代の人間にも、同じようなものが入っているものだと思っていた。
「どうしても、この時代の人を理解することができない」
と思っていたのはそこだったのだ。
義之の時代に埋め込まれた「安全装置」は、人間にとっての苦肉の策だったに違いない。未曾有の大戦争があったことは、彼の記憶装置にはインプットされていたが、あくまでも戦争があったという「事実」だけで、それに対しての意見はインプットされていない。つまり、彼にとって、成長していく中でいかようにも理解する術はあったということである。
ロボットに組み込まれたものとは、少し違っているようだ。ロボットの場合は、人間という別の種別に対しての危害であって、人間に埋め込まれたものは、「人間」という同種俗に対してのものだった。
香澄の時代の人間には組み込まれていないことを知ると、
「この時代の人に、俺たちの時代の人間と同じものが埋め込まれているとすれば、どうなんだろうな?」
と、彼は考えた。
彼が見つけた結論は、
「本当はこの時代の人の中になければいけないものなのかも知れない」
というものだった。
この時代の人間は、いわゆる「個人主義」である。
自分さえよければそれでいいのだ。ただ、それは、自分だけという意味ではなく、少なくとも自分の家族、あるいは、まわりにいる自分と仲のいい友人。少しずつ「自分」という概念が広がっていく。
つまりは、自分と利害関係のある人たちすべてさえ良ければ、それでいいという考えである。
義之の時代の人間は、発想は逆だ。
作品名:安全装置~堂々巡り②~ 作家名:森本晃次