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安全装置~堂々巡り②~

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「たまには、骨休みだと思って、ゆっくりするのもいいか」
 と、楽天的に考えていた。精神状態の病なので、下手に深刻にならない方がいいに決まっている。
 病院にもロボット看護婦や、リハビリ専門のロボットがいたりして、ロボットの普及が進んでいることを示していた。
「いつも研究室に籠りっきりで分からなかったけど、世間はこんな風になっていたんだ」
 と、自分が世間知らずであったことを今さらのように知った。
 ただ、義之のまわりには、ロボットを近づけさせないように病院側が配慮してくれた。
「ロボットの研究によるストレスや精神的な疲労なんだから、相手をするのは生身の人間がいい」
 ということだった。
 看護婦はまだ若い女の子で、
――まるで自分の娘くらいではないか――
 と感じた。
 ロボット研究に没頭するあまり、人間を相手にすることはなくなり、結婚もしなかったので、当然子供がいるはずもない。
――子供っていいものだな――
 と思うようになったが、それは、今までに感じたことのない思いだったはずなのに、
「はて、以前にも感じたことがあるような」
 と、思わず声に出して言ってみた。
 初めて感じるはずなのに、以前にも感じたことがあるというのは、「デジャブ現象」ではないだろうか?
 いや、デジャブではない。今までに何度もデジャブのような意識を感じたことのある義之は、その時よりも明らかに鮮明な意識をその時に感じた。本当に感じたことを、意識して記憶に封印したかのような感覚だ。
 義之は、学生時代、ロボット工学を専攻していたが、その時に一緒に人間の心理学についても勉強していた。ロボット工学の方に偏った勉強だったので、人間の心理学は、ほとんどうろ覚え、それでも、要所要所では記憶として残っているようだった。
 その時義之は、
――俺の中には、もう一人の誰かがいるんじゃないか?
 と思うようになった。
 それは、夢の中に出てくる
――もう一人の自分――
 ではない。まったく違う人が自分の頭の中に同居していて、時々表に出てくるのだ。
 そのことを今まで意識したことがないと思っていたが、本当は何度も意識していて、それを肯定できない自分がいたような気がしてきた。
 医者からも同じことを言われた。
「君は確かに二重人格なんだけど、二重人格の人は、二つとも自分という一人の人間の意識から形成されるものなんだけど、君の場合は、どこかからもう一人の誰かが君の中にいるんだ。それは君自身ではなく、まったく違う人。しかも、それは君の遺伝子から見つかったんだよ」
「ということは。僕の先祖のどこかから、もう一つの人格を遺伝として受け継がれてきたということですか?」
「そういうことになるね。それが君の先祖の誰かの中の二重人格から始まっているのか、それとも、二重人格が始まった時、君の先祖に別の誰かの意識を埋め込まれたかということだろうね」
 義之は、医者の話を聞いて、どこかまだ納得できない雰囲気だったので、
「どうやら、もう少し入院が必要なようだね」
 と言われた。
 従うしかないので、言われた通りに入院していた。
 いつもの看護婦が、いつものように世話をしてくれるのだが、やはりどこかで見たことがあるように思えて仕方がなかった。
 名札には、
「永池沙織」
 と書かれていた。
「沙織……」
 頭の中にその名前を反復してみる。思い出せそうで思い出せないもどかしさがあったが、それでも構わないと思った。
 義之は沙織を見ていると、その顔を忘れることはないという確信めいたものがあったのに気付いていた。
 そのことが、偶然と予知能力という考えを引き出していくことになるとは思いもしなかった。
 義之は退院してから、自分の中に誰かがいることを確かめる必要があった。
 ただ、闇雲に何を探すというのか、義之には漠然としてしかなかった。
 退院はしたが、
「このままロボット研究を続けることにはあまり賛成できませんね。このまま原因をハッキリさせることができないと、間違った方向にこれから進んでいくように思えてならないんです。これは医者としての意見と、心理学の観点からですね」
 医者は、臨床心理の権威でもあった。
 今までの義之なら、あまり気にしなかったかも知れないが、どうしても引っかかりがあった。そこに看護婦として自分についてくれた
「永池沙織」
 という女性の存在が大きくなっていることに違いはなかった。
 入院中に、彼女とはいろいろな話をしてくれたが、その中で一つ気になったのが、
「私、ずっと日記を付けているんですよ。日記をつけ始めると、一日でもおろそかにはできないという気分になるんです」
「どうしてだい?」
「だって、一日でも書かないと、そのまま書くのを止めてしまう気がしてくるからなんです。『たった一日だけで?』と言われるかも知れませんが、その『一日』が重要なんですよ」
 その話を聞いて、目からうろこが落ちた気がした。
 それはロボット工学の研究でも同じことだった。一つのことを研究していて、一日でもやらないと、次の日に続けられる気がしない。
「自信がない」
 ということもあるが、もう一つは、
「忘れてしまっている」
 という意識が強いからだ。
 やらなかった一日というのが、ただの一日ではなく、まったく違う時間を過ごしていたような気がするからではないだろうか。それだけ集中しているということにもなるのだろうが、最近はそれを、
「もう一人の別の自分が、その時間を司っていたからだ」
 と思うようになっていた。
 日記という形ではなく、研究日誌は毎日つけている。それも、その日の仕事のまとめという意味で、大切なものだという意識がある。
 だが、日記というものを付けたことはなかった。
 日記というと、昔から言われるような
「つれづれなるままに」
 という件があるように、
「日常のことをただ書いているだけ」
 という意識が強く、研究日誌をつけている自分には、
「お粗末なもの」
 としてしか映らないのだ。
 今まで、日記というと、夏休みの宿題に日記というのがあった。昔から残っている義務教育の中でも、実にくだらない風習だとしてしか理解していなかったものだ。夏休みの他にもあった自由研究のようなものは廃止されたのに、なぜか日記だけは残っている。一度文部科学省に文句を言いたいと思っていたくらいだった。
 その頃から日記は毛嫌いし、日記という言葉は聞かないようにしていた。
 それなのに、この年になって看護婦から聞かされた日記という言葉に反応してしまったのは、彼女の名前が「沙織」だったからなのかも知れない。
 だが、看護婦の沙織から、
「日記を付けている」
 という話を聞いて思い出したのが、昔聞かされた母親の言葉だった。
 小学校の日記を毛嫌いしていた自分に、